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『万葉集』巻第3-315・316 ~ 大伴旅人の歌

訓読

315
み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変はらずあらむ 幸(いでま)しの宮
316
昔見し象(きさ)の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも

意味

〈315〉美しい吉野の宮は、山そのものがよくて貴い。川そのものがよくて清らかだ。天地とともに永く久しく万代に変らずあってほしい、天皇がお出かけになる吉野宮よ。

〈316〉昔見た象の小川を今再び見ると、ますます冴え冴えと美しくなった。

鑑賞

 暮春の月(春の3月)、聖武天皇が吉野の離宮に行幸なさった時、天皇の仰せを受けて大伴旅人(おおとものたびと)が作った長歌と反歌。年次が記されていませんが、題詞から旅人が中納言だったことがわかり、神亀元年(724年)のことらしいと推定されています。すると、旅人は60歳、聖武天皇の即位は2月4日なので、それからひと月そこそこの行幸だったことになります。遊楽というより、多分に信仰的神事の目的によるものだったとみられます。

 こうした行幸のような改まった際の賀歌には、古風に長歌形式をもってするのが先例となっていました。また、最高の敬意をもって天皇を讃える場合、親近しているかのように言うのはかえって非礼とされましたから、距離を置いた宮そのものや土地、山川を讃えています。ただし、旅人の吉野行幸歌は、人麻呂赤人らとは異なる詠みぶりであり、『懐風藻』に載る吉野詩群によった漢文臭の強い作品であることが指摘されています。歌詞の「み吉野の吉野」ほか「山からし」「川からし」「清けくあらし」「天地と長く久しく」「幸しの宮」などは、いずれも『 万葉集』中には見られない語です。

 旅人は行幸歌を詠むにあたって、語彙の上でも様式の上でも、人麻呂や赤人の模倣はしませんでした。なぜなら、それまでの旅人がもっぱら馴れ親しんできたのは、大和歌ではなく漢詩・漢文学だったからです。それは律令制下に生きる高級官僚として当然の教養であり、たしなみでもありました。この時には、彼の歌は上奏するに至らなかったとの注記があり、人々の耳目に触れることはなかったのですが、その後も、彼はしばしば漢文と和歌との融合という手法を用いて歌作りに挑戦しています。

 315の「山からし」の「から」は、本性よりしての意、「し」は、強意の助詞。「貴くあらし」の「あらし」の「らし」は推量、「あるらし」と同じ。316の「昔」は、天武・持統朝の時代のこと。「象の小川」は、吉野を流れる現在の貴佐谷川。「いよよ」は、いよいよ、ますます。国文学者の池田彌三郎は、この歌を評し、「従来の儀礼歌の類型的な形式によりながら、形式的な空疎にとどまることがなく、しかも名族の氏の上(かみ)らしい、大がらな、こだわりのないよさを十分に持っている」と述べています。反歌の下2句は、魂が洗われ生き返るような感動表現であり、また60歳を迎えた自祝の思いが込められているかのようです。

 大伴旅人は安麻呂(やすまろ)の子で、家持の父、同じく万葉歌人の大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は異母妹にあたります。大伴氏は、新興の藤原氏と比べても、古くから政治の中枢にいた名門の豪族であり、旅人は710年に左将軍正五位上、718年に中納言、720年に征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任ぜられ、隼人を鎮圧しました。727年ごろ大宰帥(だざいのそち)として九州に下り、730年12月に大納言となって帰京。翌年に従二位となり、その年7月に67歳で没しました。

 旅人は『万葉集』に70首前後の歌を残していますが、ここの長・短歌以外はすべて大宰府へ赴任して以降の作となっています。つまり旅人の作歌は、大宰府時代とその後帰京して亡くなるまでの間、すなわち晩年の3年間(64~67歳)に集中しており、彼が60歳まで沈黙していたことは謎とされます。青年期には一門の長としての教育を強いられ、壮年期には官位が上がるにつれて高級官僚としての政務に忙殺されていたのでしょうか。一つの考え方として、晩年に作歌が集中している理由に次の3点が掲げられています。①老身であるがために予期しなかった人生体験にいくつも遭遇したこと。②文芸の創作と享受を共にする歌友・詩友が周囲に存在したこと。③筑紫という鄙の地に在らねばならなかったこと。
 

大伴氏について

 大伴氏は建国以来の名門であり、主に軍事・防衛の領域を統括してきた武門の名族でした。天孫降臨の際にその前衛を務めた天忍日命(あめのおしひのみこと)、神武建国の功臣道臣命(みちのおみのみこと)を先祖とし、また日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にも大伴連武日(おおとものむらじたけひ)が従いました。さらに氏族制のもとでも、武烈天皇から、継体、安閑、宣化、欽明天皇の5代にわたって、大連(おおむらじ)として大伴金村(おおとものかなむら)が国家の枢機に参画してきました。

 しかし、金村は、晩年にいたって、半島政策の軍事的失敗の責任を、同僚の大連物部尾輿(もののべのおこし)に追及されて失脚し、それに代わって蘇我氏一族が大陸からの帰化人の勢力を背景にして急速に台頭してきました。大伴氏が政治的復権を果たすかのように見えたのは、大化改新のさいに活躍した大伴長徳(ながとこ:旅人の祖父)が右大臣に任じられ、さらにその子の安麻呂(やすまろ:旅人の父)と御行(みゆき)の兄弟をはじめ一族の大伴馬来田(まぐた)や吹負(ふけい)などが、壬申の乱で大海人皇子側に立って、その勝利に貢献したことでした。

 しかし、政治の実権はすでに旧氏族から離れ、旧氏族勢力を解体させた大化改新の功労者、中臣鎌足の藤原氏一族に握られ、かつての名門大伴氏の存在は見る影もなく衰退したのでした。旅人は父・安麻呂の後継者として一門の長となり、政治的実権はなかったものの、ともかく官途には就いていました。
 

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