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酒池肉林
中国故事で人生勉強
殷(いん)は、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝です。文献によれば、湯王(天乙)が夏(か)を滅ぼして建立したとされますが、夏王朝の実在は確認されていません。紀元前17世紀ころから紀元前1046年まで続いた殷の王位は世襲制で、その30代目とされるのが紂王(ちゅうおう)です。
『史記』によると、紂王は美貌を持ち、弁舌に優れ、行動力があり、頭の回転が早く、猛獣を倒すほどの体力もあったといいます。まことに名君としての素養は十分だったのですが、臣下がみな愚鈍に見えるため、次第に増長し、さらに、他部族を討伐した際に、妲己(だっき)という美女を得てからは、暴君に変貌していきます。
紂王は、政治を忘れて妲己との愛欲にのめりこみ、彼女の歓心を買うために、国の財貨を湯水のごとく注ぎこむようになります。豪華絢爛な離宮をつくり妲己を住まわせ、常に妲己を侍らせて遊楽に明け暮れました。その窮めつけが「酒をもって池となし、肉を懸けて林となし、男女をして裸ならしめ、その間を相逐(お)わしめ、長夜の飲をなす」という所業でした。いわゆる「酒池肉林(しゅちにくりん)」です。
また紂王は、自分を非難する者を次々に捕えて、火あぶりの刑(炮烙の刑)に処しました。これは、猛火の上に多量の油を塗った銅製の丸太を渡し、その熱い丸太の上を罪人に裸足で渡らせるという刑です。罪人は焼けた丸太を必死の形相で渡りますが、油で滑って転落しそうになり、丸太にしがみつくものの熱くてたまらず、ついには耐え切れずに猛火へ落ちて焼け死にます。妲己は、罪人たちの断末魔の形相が面白いと言って、喜んで見たといいます。
紂王の親戚に箕子(きし)と比干(ひかん)という賢人がいて、贅沢をやめるように諫言しましたが、紂王はまったく受け入れず、誅殺を恐れた箕子は狂人の振りをして奴隷の身分になりました。また比干は、残酷な炮烙の刑をやめるように諫言しましたが、これも聞き入れず、「聖人の心臓には7つの穴があるという。それを見てみたいものだ」と言って、比干の胸を切り裂き、心臓を抉り出して殺したのでした。
この状況に、紂王を討伐しようと立ち上がったのが、周の発(武王)でした。殷は70万を超える大軍で対抗しましたが、その軍の兵は奴隷が多く占めていたため、戦意がないどころか発が来るのを待ち望んでいたほどのありさまでした。殷軍はあっという間に敗北、追い詰められた紂王は焼身自殺しました。これによって殷王朝は滅亡します。
ただし、紂王についての伝記の内容は、暴政や悪事についてが殆どですが、それらは殷を倒した周が武王の功績を称え統治を正当化するために暴君として描いたとも考えられており、信憑性が薄いものも多くあるようです。孔子の弟子だった子貢は、『論語』の中で「殷の紂王の悪行は、世間で言われているほどではなかっただろう」とも述べています。
故事成句
懸頭刺股(けんとうしこ)
苦労して勉学にはげむことのたとえ。また、眠気をこらえて勉強することのたとえ。「頭を懸け股を刺す」とも読む。
漢の時代、孫敬(そんけい)は、勉強中の眠気をこらえるために頭を天井から下げた紐にかけて、机にうつぶせになるのを防ぎ、また戦国時代のの蘇秦(そしん)は、眠くなると自分の内股を錐(きり)で刺して読書に励んだという故事から。