『万葉集』巻第14-3376 ~ 東歌
訓読
恋しけば袖(そで)も振らむを武蔵野(むざしの)のうけらが花の色に出(づ)なゆめ
[或る本の歌に曰く いかにして恋ひばか妹に武蔵野のうけらが花の色に出(で)ずにあらむ]
意味
恋しければ袖も振るものですが、私たちの恋は人に知られては困るので、武蔵野のおけらの花のように、ほんのかすかでも目立つような素振りはしないようにしましょう、決して。
(どのように恋したら、あの子に対して、武蔵野のおけらの花の色のように、目立たずにすますことができるのだろうか)
鑑賞
武蔵の国(東京都・神奈川県・埼玉県にまたがる地域)の歌。「恋しけば」は、恋しければ。「うけら」は、キク科多年草のオケラ。秋に白または淡紅色のアザミに似た地味な花が咲き、根は漢方薬に用いられ、正月用の屠蘇散の原料にもなります。「袖も振らむを」は、袖を振ろうものを。袖を振るのは、衣服の袖には魂が宿っていると信じられており、離れた者との間で相手の魂を呼び招く呪術的行為でした。「色に出なゆめ」の「色に出」は「色に出(い)づ」の約で、恋心が表情や素振りに出る意。「な」は、禁止。「ゆめ」は、決して。
なお、この歌の解釈はふつう「恋しいなら私が袖を振りもしよう。でも決してお前(あるいはあなた)は恋心を顔色にあらわしてはいけません」とありますが、相手にそぶりを見せるなと言っていながら、自分は恋しくなったら袖を振ろうというのは勝手すぎてしっくり来ないため、上述の解釈に従います。「或る本の歌に曰く」の歌は別伝とされていますが、明らかに女の歌に対する男の返歌です。