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クラシック音楽の話(43)

チャイコフスキーの二面性


 音楽評論家の樋口裕一さんが、チャイコフスキーの二面性について語っています。人は誰にも二面性はあるものだけど、チャイコフスキーの場合は「とても納得できない」レベルだって。たとえば、交響曲第6番『悲愴』の第1楽章、静かに鳴ってやがて音が途絶える。誰しもここで音楽が終わると思う。ところがその後、突如として大音響が鳴り響く。聴く者は、心臓が止まるような驚きを覚えるだろう、って。

 まさにその通り、名盤とされるカラヤン指揮、ウィーンフィルのCDを聴いていますと、来るぞ、来るぞと待ち構えていても、毎度、とてつもなく破壊的な大音響に打ちのめされます。生まれて初めてこの曲を聴いたときなんぞ、もうショック死しそうになりましたから。それまでの音が割りと小さいため音量を上げていたので余計です。もう、スピーカーと部屋がぶっ壊れるかと思った。この作曲家は、いったい何という曲を作るのか、とゲンナリもしたもんです。

 樋口さんによれば、悪く言うと、これまでおとなしかった人間が突然キレてヒステリックになるようなもんだと。それが日常生活で行われると困るけど、こと芸術作品の中で起こると、そこに魂の躍動が起こり、カタルシスが起こる。それがチャイコフスキーの音楽の魅力でもある、って。うーん、なるほどという気もしますが、いくら「芸術は爆発だ!」とか言われても、あれはちょっと度を超えていると思うなー。極めて体によろしくない。なので、普段はあまり聴きたくない曲なのです。
 


チャイコフスキーの《交響曲第5番》

 交響曲《第6番》は、上述のごとく突然の大音響に対する恐怖感、嫌悪感ばかりが先に立ち、ほとんど聴く気にならない私ですが、《第5番》は大好きな曲の一つで、よく聴いています。ドラマチックでありながら、深刻さはそれほどでもなく、弦楽器が奏でる美しく甘美な旋律はチャイコフスキーならでは、だと感じます。

 この曲は、《第4番》《第6番》とともに、今でこそ後期の3大交響曲として高く評価されていますが、調べてみると、1888年の初演直後は、一般聴衆の反応は悪くなかったものの、専門家による評価はボロクソだったといいますね。「ワルツ(第3楽章)の形は狭くて軽々しい」とか「思想が貧弱で、お定まりで、音が音楽に勝っていて、聴くに耐えない」などの辛辣な評価もあり、チャイコフスキーはすっかり自信を無くしてしまったんだとか。いやいや、古今を問わず、専門家という人たちの言葉はずいぶんいい加減なもんですよ。

 曲は4つの楽章からなり、「運命に対する勝利」を表現しているそうです。といっても、一直線に激しく突き進むのではなく、たゆたうように、行きつ戻りつしつつ、時には急ぎ、時には立ち止まり、しかし、だんだんと着実に高みに昇っていく・・・、そんなふうに私には感じられて、たいへん心地よいです。印象的な「運命の動機」とされる主題が、各楽章に同じように流れており、そのせいもあるのでしょうか、その分、堅実さや一体感、統一感が強く感じられる引き締まった曲であると思います。

 愛聴盤は、カラヤン指揮、ウィーン・フィルによる1984年の録音と、ラファエル・クーベリック指揮、ウィーン・フィルによる1960年の録音です。
 

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