俺、家業に就く
俺の故郷は地方県の過疎地域。人口も少ない。
県内にはもっと人口が少ないところがたくさんある。
日本の人口が減り続けていることを考えると、俺の住む地域もいずれはさらに人口が減っていくだろう。
俺はBOND、昭和生まれ、妻と子ども二人。
趣味はモデルガン・フィギュア収集、映画鑑賞。
肉と酒と料理が好き。酒は何でも飲む。
今から20年程前、俺は親父の会社を継ぐために故郷に帰ってきた。
社員数25名ほどの小さい会社。
帰ってきて経営収支を見てみると、やばい数字。
そうか、だから親父は俺を戻らせたんだ、と思った。
一時は高額納税者にも名前を連ねていた親父だったが、その面影はすっかり影を潜めていた。
変わらないのは巨大な社屋と親父の態度。
立派な経営者面をして、俺に指図してくる。
親父は経営学を専攻していたんじゃなかったのか?
こんな数字になってから俺を帰らせるなんて、、
だが、そのことを悔やんでも仕方がない。
まずは親父から色々学ばなければならない。
しかし、世代が違えば、同じことをしていても意見が合わない。
社員はもちろん親父寄り。
やりにくいなあ。
そんな毎日を過ごしていたら、あっという間に10年たっていた。
10年たてば十分会社に馴染むだろうと思うかもしれないが、俺はそうではなかった。
なぜなら、親父はバリバリの社長、社員からの信頼も厚く、俺のやり方に賛同してくれるのは妻だけだったからだ。
それからほどなく、親父が後期高齢者になる頃、とうとう社長の椅子を降りることになった。
20年前からの10年間を振り返ると、収支はある程度持ち直したが、親父の最盛期には全く届かず。
今思えば、これも時代の流れ、地域的に厳しい状況があった。
しかし、当時の俺は、もっと頑張れば、もっと頑張って仕事すれば、また、以前のような状況が取り戻せるはず。
などと真面目に考えていた。
そして、社長の座を譲られた俺。
俺が社長になってわかったのは、親父は、自分の思い通りに物事を進ませる、言わばワンマン社長だったということ。
昭和初期生まれの経営者にありありのタイプ。
一度言い出したら他人の意見は聞かずに突き進む。
しかし、社員は親父のそんな一途なところに一目置いていた。
信頼もしていた。
なぜなら、社員は親父から言われたことだけをすれば良かったからだ。
ある意味楽だよな。
今では通らない話だが、、。
そして、最盛期の頃の忙しさから、親父は売上げに関してはワンマンぶりを発揮したが、経費については無頓着だった。
それにしても、収支は良くならない。更に悪くなっている。
こんな時はどうすればいいものか。
いくら頑張って仕事をしても利益が出ない現実。
売上げはあるのに、、
もしかしたら、経費がかかりすぎているんじゃないのか?
当時から遡ること25年。昭和の最後の最後に立てた社屋。
親父は最新の設備で建てたんだそうだ。
窓は二重。
天井の吸音板が途中まで壁に降りてきている贅沢な作り。
防衛省の補助金で建てたという非常に硬い骨組み。
そして、セントラル空調。
この旧型セントラル空調とそれに関わる設備には問題がありありだった。
一つには、
エアコンの様にいつでも好きなように温度の調節ができない。
年に2回、業者に頼んで冷房と暖房の切り替えをしなければならなかった。
業者に頼むのも当然有料で、金額もばかにならない。
我が社のセントラル空調は、
熱源発生装置(ボイラー)で石油を使って温水を発生させ循環パイプで各部屋に温水を送るタイプ。
ボイラーは1.5トンというとんでもない量の水をためることができ、24時間休むことなく80度で温められていた。
俺の確認したところで今までで最高の水道代は100万円だ。
高いよなあ。
水道代の相場はどれくらいなんだろう。
そしてその熱源である石油は、地下タンクから供給された。
セントラル空調や他の設備を動かすために、我が社には石油の地下タンクが設けられていた。
ガソリンの給油所が、地下タンクの改修ができないため次々と閉鎖されていったことは記憶に新しいと思うが、我が社にも同じ状況が迫っていた。
到底、当時の経営状況では高額な地下タンクの改修はできない。
俺は改修工事を頭に思い描き始めた。
続く