リデル・ボンボン・オ・ショコラの生涯 2

 ノワゼの車は、黒の塗装も剥落しかかった時代遅れのロートルで、大層年期は入っているが、速度の面では決して昨今の車に劣らない。寧ろ直情径行型の突撃銃(ライフル)である。一度アクセルを踏み込んだら最後、留まることを知らない競技車ばりの加速は、老朽化でいかれてしまったエンジン系統によるものである。ノワゼはその振り切れたスピードが癖になるのだと言って、しょっちゅう音を上げるオンボロ加減に毒突きながらも、新型の車に乗り換えるだとかそういう発想には至らないらしい。
 彼はまた、本物の銃器の類をも愛好している。主の護衛のために所持していると言えば聞こえはいいものの、ノワゼのそれが個人的な趣味嗜好の範疇にまで及んでいることは明らかだった。彼は普通に生活していればまず使用には至らないであろう多種多様の銃を集め、暇を見つけてはそれらをばらして、入念に手入れを行った。
 男の人はいくつになっても童心を捨てきれないと言うけれど、ノワゼでさえもそうであるという事実に、リデルはある種の感服を禁じ得なかった。黒づくめの近寄り難い風貌とは裏腹に、ノワゼは非常に穏やかな性質(たち)の男なのだ。気弱で心優しく、時折乱暴な口を利くことがあったとしても、それは彼のオンボロ車に対してだけだった。或いは謹厳実直な性格故、様々なものを押し殺してきた反動がこの嗜癖(フリーク)なのかしらと、常日頃より義理堅さの度が過ぎるノワゼを、リデルはほんの少し気の毒に思った。
 ともあれ、ノワゼのスピード狂のおかげで、まだ日の高いうちに目的地であるところのお菓子の家に辿り着けたのは幸いと言えた。お菓子の家というのはリデルが勝手に付けた呼び名で、何もおとぎ話に出てくる魔女の家のように、あらん限りの菓子の類からできているわけではない。海岸線に沿って延々と続く防潮林、その雑多な翠緑に紛れるようにしてひっそりと佇む、何の変哲もない木造二階建てのロッジだ。今やリデルとノワゼの他にその存在を知る者はおらず、私有地である防潮林に迂闊に立ち入るような酔狂も、この慎ましやかな町に居はしなかった。仮にもし、浜を通りすがる人が、木々の狭間にこのロッジを見つけ出すことができたとしても、こぢんまりとした佇まいは貴人の別荘というよりは簡素なコテージといった風情で、かのボンボン・オ・ショコラ家の人間が出入りしていようなどとは、誰しもが夢にも思わないに違いなかった。
 本邸のような絢爛さはなくとも、無骨で愛想のないお菓子の家が、リデルは好きだった。元よりリデルは、お高くとまった貴族暮らしは自身の性に合わないと感じていたし、ここに来れば誰にも邪魔されず、ノワゼと対を成す半身となることができたからだった。
 長らく人足の途絶えていたロッジの内部には、どこもかしこも分厚く埃が積もっており、着いて早々、二人は本腰を入れて隅々まで掃除をする羽目となってしまった。
「ここに来るのは本当に久しぶりだ」
 素足を晒して床の雑巾掛けをしていたリデルは、磨き上げたばかりの床にぺったりと胡坐をかき、懐かしそうに居間を見渡した。
 粗っぽい外観からすれば、内装は比較的小綺麗な造りになっていると言えた。家中に使われている胡桃材やオリーブ材はどれも上等のもので、リデルが磨くそばから複雑な美しい木目を現し、甘く光った。葡萄の実や葉の彫刻を施されたチェストも、銀食器のセットも、東洋の趣向を取り入れた青絵の大壺も、部屋を彩る調度品はどれ一つとして半端なものはなく、一級の品ばかりが取り揃えられていた。無論、そうした雅趣に富んだ品の数々も、今ではすっかり歳月にくすんでしまっていた。
 主人に下働きのようなことをさせるなど、と渋るノワゼを押し切って、リデルはこの稀有な状況を満喫していた。ボンボン・オ・ショコラの屋敷では掃除は使用人がするものと相場が決まっていたし、何年も放置されてとっ散らかったような場所に出向くというのも、常のリデルならばあり得ないことだった。
「リデル」
 毛はたきを片手に、脚立の上から主人に目をやったノワゼは、苦々しげに顔をしかめた。
「そんなに股をおっ広げて座るもんじゃない」
「父上と母上が、僕たちのためにあつらえてくれた秘密基地。おじきの目を盗んでここまで来るのは、なかなか骨が折れるからねえ」
 ノワゼの言葉は聞こえなかったふりをして、リデルはしれっとそう言った。
「追っ手が来はしないだろうか」
 磨り硝子の火屋を並べたシャンデリヤと天井との間に、幾層にも張り巡らされた蜘蛛の巣を払い落としながら、ノワゼは落ち着かなげな様子だった。
「なあに、心配はいらないさ。おじきはこの館を知らないからね、そう簡単に見つかりやしないよ」
 あっけらかんと笑い飛ばすリデルに、ノワゼは悟られぬようそっと溜め息をついた。繊細な陶磁器人形(ポーセリン・ドール)のような外見にそぐわず、リデルは開けっ広げで、磊落な性分だ。親譲りと思しきその奔放さと、既に届かぬ場所にいるリデルの両親とを、ノワゼはわずかに恨めしく思い、磨り硝子の火屋にしつこく絡み付く蜘蛛の巣を、躍起になってはたいた。
 ロッジがあらかた片づく頃には、二人の顔も服も、すっかり煤けて薄汚れていた。窓から差し込む日差しも西日となり、いい時間となっていたが、この格好では食事の支度もままならない。琺瑯引きのバスタブに湯を張り、二人は先に風呂に浸かることにした。
 お菓子の家に造り付けられた浴室は、屋敷の大浴場とは随分と勝手が違う。浴槽は狭く、シャワーもカランも一つずつしか備えられていない。草花を鮮やかに描いた外国製の磁器タイルだけが、殺風景な浴室に、文字通りの華を添えていた。
「……リデル。いい加減、俺と一緒に風呂に入るのはどうなんだ」
 すべらかなリデルの背中を、スポンジのきめ細やかな泡で丁寧にこすり立ててやりながら、ノワゼはいささか言いにくそうに口を開いた。
「おや、ノワゼ。お前は僕の傅(めのと)なのだから、何も問題はないだろう?それとも、僕の背中を流すのに嫌気が差してしまったのかい?」
「そういうことではない!」
 意地の悪いリデルの言葉に反射で切り返してしまってから、思いのほか激している自身の口調に、ノワゼは一抹の決まりの悪さを覚えた。ひと呼吸ののち、努めて平静を取り繕って、ノワゼは言った。
「俺は別に構わないさ。リデルが望むのならば、今後もそうすることについてやぶさかではない。だがな。お前ももういい年頃なのだし、少しは恥じらいというものを持ったらどうかということを、俺は言っているんだ」
「つまりお前は、二次性徴を迎え成熟しつつある僕の裸を見るのが後ろめたい、と」
「莫迦、」
「イテッ!」
 容赦なく頭を小突かれて、不意の襲撃にリデルは頓狂な声を上げた。痛む後頭部をさすり、背後ですました顔をしているノワゼを、恨みがましく睨め付ける。リデルの頬には濡れそぼった髪が、ぺったりと束になって張り付いている。
「今の、本気だっただろ……」
「お前が妙な言い方をするからだ。ほら、前を向け」
 しゃあしゃあと言い放って、ノワゼは躊躇なくシャワーのコックを捻った。顔に向かって勢いよく湯が飛んできたリデルは、急いで前を向かなければならなかった。
「……お言葉だが、僕はお前の裸を見ても少しも恥ずかしくなんかないね」
 おとなしくノワゼに背中を流されながらも、リデルの言葉は刺々しかった。
「あのなあ……!」
「僕が生まれたときからの付き合いなんだ。今更何を恥じらうことがある?」
 ノワゼは押し黙った。疵ひとつない絹の肌を、跳ね回る水とともに乳白の泡が流れ落ちていくのを、じっと見つめた。ノワゼが言葉を発さなくなったことにリデルも気がついているだろうが、言及する気配はなかった。それまでは気にも留めていなかった石鹸の清しい匂いが、急に鼻についた。静寂の中に、なまめかしい水音だけが響き続けていた。
 ノワゼの作った夕食──香味野菜とココナッツミルクでマリネしたチキンソテーに、パプリカのエスニックサラダ、鶏の出汁を用いたライスにスープ──を取り終える頃には、リデルの機嫌はすっかり元通りになっていた。ノワゼの料理の腕前に、リデルは感嘆さえしていた。
 元来、手先の器用な男だった。その取り柄の女々しさに、ノワゼは引け目を感じているらしかったが、リデルに言わせれば彼はもっと、己の長所を誇りにして然るべきだった。
 夕食を済ませてしまうと、二人は居間のチェステーブルを挟んで、一局に興じることにした。お菓子の家を訪れるのが数年ぶりなら、この場所でチェスを指すのも、当然ながら久しいことだった。叔父の屋敷でも二人がチェスを指すことは数多あったが、それはあくまでも主人の道楽に使用人が供する、という体裁の下に行われなくてはならないものだった。お菓子の家でなら、彼らは全く対等に向かい合うことができた。また、その盤上で行われるチェスは、彼ら双方にとって特別な意味を持つものだった。
 かつてリデルはこの場所で、傅となったばかりのノワゼにチェスの手ほどきをした。そうしてそろそろと指を這わせるようにして、立場も年齢も、色彩も違う二人は、歩みを添わせていったのだった。桃花心木(マホガニー)と楓の寄木細工で仕上げられたチェステーブルは、見るからに古ぼけてはいたが、疵や窪みの刻み込まれた盤面、ところどころふちの欠けた駒は、二人の歴史を共に歩んできた同士であることの証でもあった。その盤上でチェスを指すということはまた、互いの輪郭に触れ、骨格や内臓の内側にまで指先を滑り込ませる儀式だった。
 教え始めた頃には駒の動かし方すら知らなかったノワゼは、めきめきと腕を上げた。今となってはリデルが知る他の誰よりも、彼のチェスの腕前は確かなのではないかと思われた。
 ノワゼは使用人などではなく軍人に向いているのではないかと、彼とチェスを指す度にリデルは思った。それも大勢の中の一兵卒ではなく、将軍クラスの官職に就けることだろう。リデルの指す手が詩的な叙情歌だとすれば、ノワゼのそれは闘志に満ちた軍謡歌だった。チェス駒の軍隊を統率し、指揮することにおいて、ノワゼは天才的だった。王を落とすためならば大胆とも思える犠牲を支払い、攻撃に切り込んだ。それらの全てが、綿密な計算の元に行われていた。気弱で心優しいノワゼは、市松模様の盤上でのみ、勇猛果敢な騎士となった。リデルの想像の中で、黒衣は鉄(くろがね)の鎧となり、銃はすらりとした刀身の剣となり、オンボロ車は漆黒の駿馬となった。
「チェックメイト」
 厳粛な男の声が響いた。白のキングは自陣の駒に逃げ場をふさがれ、もう黒のナイトに取られるのを待つばかりだった。リデルは微笑して、自らのキングを盤上に横たえ、静かに負けを宣言した。

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