リデル・ボンボン・オ・ショコラの生涯 1
フランネルのシャツに袖を通し、ウールのソックス、ヘリンボーンの半ズボンもすっかり身に着けてしまうと、美しい子供はバレリーナのように、唐草模様(アラベスク)の絨毯の上でくるりと一回転して見せた。
「うん、やはりこちらの方が動きやすい。実に快適だよ、ノワゼ」
軽やかな足取りで元の位置に着くと、子供は傅く男に向かって、完璧な微笑を浮かべた。耳の辺りでまっすぐに切り揃えられた金髪が、透き通った頬の上を淀みなく流れ、幼い仕草とは不釣り合いに大人びた表情は、子供に妖艶な色香を添えた。
「リデル様。あまり動かれてはタイが結べません」
襟元に巡らされていたタイは、リデルが回るのに伴って、男の片手に宙ぶらりんになって残った。匂い立つリデルの色香に惑わされる素振りもなく、黒衣に濡羽色の髪を持つ男は、端的な事実のみを主に告げた。ノワゼは先ほどから、茶運びの自動人形のように、淡々とリデルに服を着せ、無機的な正確さで彼の仕事に従事しているのだった。
「ノワゼ」
いい加減に気を悪くしたリデルは、膝を突いて従えるノワゼを、鮮やかな菫色の眸で非難がましく睥睨した。
「なんでしょうか、リデル様」
「それだよ、それ!その呼び方、しゃべり方!おじきの目の届かないところで、それはなしだと言ったはずだろう?」
「……ああ。そうだったな、リデル」
緩慢な動作で、ノワゼは立ち上がった。齢十四のリデルと、とうに成人しているノワゼとの間には、上背に非常な隔たりがある。目線の下にあった頭が、見上げんばかりに高くなっていくのを、リデルは忌々しげに目で追った。ノワゼの、きつい眼光を宿した淡褐色(ヘーゼル)の眸は、わずかな気後れさえも滲ませず、真っ向から主人に対して拮抗していた。
「では、リデル──お前の望み通りに!」
途端に、甲高い悲鳴が上がった。リデルの体を素早く羽交い締めにしたノワゼが、タイを無遠慮に締め上げたのだ。リデルは驚いてじたばたともがいたが、大の男の力に適うはずもなく、抵抗は無駄な足掻きと潰えた。
「ノワゼ、ノワゼ」
リデルは堪えきれないといったふうにくすくすと笑いながら、尚も動きを封じにかかるノワゼの腕を、軽く叩いて諌めた。
「タイを締めすぎだ。不意打ちは卑怯だよ」
「……ふふ、」
ノワゼはようやく無表情を崩し、はにかむように笑った。笑うと目尻にしわが寄り、冷ややかな印象を与える細面が打って変わって、柔らかな気配を纏う。その人の好いしわを、リデルは好ましく思っている。
「お前が言うことを聞かないからだ、リデル」
大きな掌に金髪をくしゃくしゃと乱されて、リデルは首を振りながら、呆れて肩をすくめた。
「やれやれ。横暴な使用人もあったものだ」
ノワゼの拘束を逃れると、リデルは自らタイの結び目を直し始めた。手伝おうと腕を伸ばしかけたノワゼも、「自分でできるから」とすげなく言われてしまえば、それ以上無理に手を貸そうとはしなかった。
「ったく、おじきは頭が堅いんだよなあ。使用人が主人にそんな口の利き方をするなど言語道断だの、一人称は〝私〟を使えだの。僕は僕であって、僕でしかないというのにね。おまけにひらひらしたスカートやらワンピースやら、可愛らしい服ばかり僕に着させようとするし。お前が僕のそばに仕えることだけはなんとか許して下さったけれど、もう少し僕の意志ってものを尊重してくれてもいいとは思わないかい、ノワゼ?」
「別に、彼は間違ったことを言っちゃあいないさ。いつだって、何一つな」
小さなリデルが一生懸命に身なりを整えるのを、ノワゼは微笑ましく見守った。
「全てはリデルが成人したときに、ボンボン・オ・ショコラ家の名に恥じぬ働きをできるようにとの計らいだよ。あの方はあの方なりに、リデルを愛しているんだろう」
「もうっ、ノワゼはどっちの味方だよ」
最後の仕上げにドスキン生地のベストを羽織りながら、リデルは不服そうにむくれた。
「ま、とにかく、こんな窮屈な生活とも今日でオサラバだ。僕は今日、この屋敷を出て行くのだからな」
リデルは文机の引き出しから気に入りの万年筆を取り出すと、電話台に据え置かれた帳面に、流麗な文字の運びで一筆をしたためた。
『叔父様へ
僕たちは家出をします。理由については叔父様に置かれましても容易に察しが付くことと考えますので、敢えてここには記しません。ノワゼットが付いておりますので、どうか不要な憂慮をなさいませぬよう。お身体を大切に、元気にお過ごし下さい。
変わらぬ愛を込めて リデル』
「これでよし」
満足げに字面を見返して、リデルはベストの胸ポケットに万年筆をしまい込んだ。
「おじきめ、きっと驚くぞ!日頃から反抗的な態度を取っている僕だけならまだしも、ノワゼまでもがその逃亡に手を貸しただなんて。なんと言ってもおじきの前でのノワゼは、見事なまでにボンボン・オ・ショコラ家の模範的な使用人を演じきっているからね。もうずっと前からお前は僕だけの、忠実な家臣だっていうのに。なあ、ノワゼ?」
「リデル」
精緻を極めた工芸品のように優美な文字を、背後から無言のまま覗き込んでいたノワゼは、意を決して主人の名を呼んだ。
「本当に、いいのか?」
「いいんだよ」
言い淀む隙もなく、答は間髪入れずノワゼの耳に届いた。しかし、決して振り向かず、表情を悟らせようともしないリデルの立ち振る舞いが、何よりも雄弁にその小さな胸の羽ばたきを物語っているかのように、ノワゼには思われて仕方がなかった。
「もう行こう、ノワゼ。早くしないとおじきや他の使用人たちが目を覚ましてしまう」
リデルは颯爽と窓辺に歩み寄ると、象牙色のドレープカーテンを一気に開け放った。空は既に白み始めている。飴色に滲む光で忽ち部屋を満たす日差しに、ノワゼは淡褐色(ヘーゼル)の眸を細める。彼の纏う漆黒は、光の中にあって殊更に、その闇を深める。
リデルが窓を開けた。淡い風が、金色の髪やまっさらなシャツの裾を揺らし、透明に張り詰めた大気は、未だ部屋の奥まった位置に佇むノワゼの元にまで届いた。
「リデル」
今にも大気に溶けて、消え入ってしまいそうに霞む背中に、ノワゼの胸はざわついた。
「どこへ行きたい?」
「そんなの、決まっているだろう?」
振り向いたリデルは、既に羽ばたきを封じ込め、美しく整った、完璧な子供の体を奏していた。人差し指を唇に押し当て、楽しげに、鈴を転がすように、リデルは囁いた。
「お菓子の家さ」