移動の記録/「木曽馬の里」と「開田郷土館」(22年6月)
長野県を旅していると「馬刺し」のメニューが目に付きます。長野県には昔から馬肉を食べる文化があったようです。馬肉専門店のHPによると、「年老いた農耕馬を食べたのがはじまりだった」そうです。
実際、私が奈良井宿で頂いた馬刺しは熊本産でした。地元には「木曽馬」という日本在来種がありますが、令和元年時点で木曽で飼育されているのはわずか138頭(農林水産省)。食べるどころの騒ぎではありません。
その長野県の木曽地域では、今「木曽馬」の種の保存に力が入れられています。奈良井宿から岐阜県高山市に移動する国道361号沿いに開田高原がありますが、ここには馬の牧場「木曽馬の里」がありました。
牧場の近くにある「開田郷土館」(入館料200円)は、木曽馬の資料館で、人と馬のかかわりあいの一端を知ることができます。
同館によると、木曾義仲が京都に攻め入るため率いた1万騎の主力は、木曽馬だったといいます(さすがに解説でも1万は盛りすぎでは、と指摘してましたが)。
江戸時代の木曾馬は3000-4000頭が飼育され、明治期には山間地の農耕馬としてニーズが高まり、飼育頭数も7000頭になったそうです。
価格も高騰し、木曾馬は農家にとっての現金収入の道を開いたといいます。けれども良馬は売り払われてしまい、早くも明治半ばには木曽馬の質が低下し、産業衰退の兆しが見え始めました。そこで外国馬を導入して改良し増殖を行ったといいます。
ところが1937年の日中戦争を転換点に、軍備強化のために馬の改良がさらに強化されます。
「悲劇の木曽馬 二千年の足跡」には、「小柄な木曽馬は軍馬に不向きという理由で、大型の外国種を入れてどんどん改良を進め、純血の木曽馬が消えていった」という描写があります。
もともと日本では1900年代初頭から国家政策により馬の改良が進められていましたが、先の戦争を契機に急速に交配が進んだことが窺えます。
「帝国日本の軍馬政策と馬生産・利用・流通の近代化」には、「改良の進展は目覚ましく1935年には97%に、わずか30年間で在来馬血統がほぼ一掃されるに至っている」と記述されています。
一掃された在来馬の血統ですが、そこには奇跡が存在しました。その一頭が「神明号」です。長野市更埴の八幡武水神社には、奉納された神馬が純血木曽馬の牡馬が残っていました。
また、木曽福島の農家には純血木曽馬の牝馬「鹿山号」が残っていました。この二頭を掛け合わせて生まれたのが、「第三春山号」だったのです。
日本では在来馬のほとんどが絶滅してしまった中で、木曽馬は奇跡の復活をたどったというわけです。
その後、愛馬家により、この開田村(当時)を主体にして保護・育成するようになったというのが牧場の由来です。「開田郷土館」には「第三春山号」のはく製が飾られていました。
馬の足にもわらじをはかせていたんですね。この郷土館にもわらじの展示がありました。画像は歌川広重のものですが、かなりのローアングルに驚かされます!(詳細は2022年8月29日の日経新聞をご覧下さい)
ぬれた仔馬のたてがみを 撫でりゃ両手に朝の露〜♪
は昭和16年にサトウ・ハチロー氏により作詞された「めんこい仔馬」。アニメ「ちびまる子ちゃん」でも紹介され、うちの3歳の娘の大好きな歌でもありました。
曲の2番の「お腹こわすな風邪ひくな オーラ 元気に高くないてみろ〜♪」からは、我が子のように馬を育てた当時の人の愛情が見て取れます。
木曽の開田高原でも、今なお馬たちが大切に育てられています。
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