名前のない時間
私は車に乗るのが好きだ。といっても自分では運転しないので、私にとって車に乗るとは、外の景色を眺めてボンヤリする時間である。今日は隣町に行くためにバスに乗った。
このところ日差しが日増しに強くなり、いよいよ夏来たれりという感じになってきた。空には雲一つなく、突き抜けるように青い。この空も日本まで続いていると思うと不思議だ。バスが郊外に進むにつれてビルが減り、代わりに畑が増える。葉っぱの緑や土の茶色がどこまでも続いていてとても綺麗だ。遠くでヒツジやラクダがのんびりと草を食んでいるのが見える。こんなに日差しが強いのにへっちゃらそうですごい。道端にはスイカ売りのトラックが止まっている。荷台いっぱいにスイカを積んだトラックは夏の風物詩だ。時々、ぼろぼろの布をひっかけたテントらしきものが見える。あそこにも人が住んでいるのだろうか…。そうこうしているうちに、商店や肉屋、パン屋など生活の店が増え、再び街になっていく。
そんな風に窓の外を流れる景色をボンヤリ眺めがら、ふと、私たちの毎日は「名前のある時間」が多いなあ、と思った。何をするか明確な時間、とも言えるだろうか。例えば、ご飯を食べる、うちで仕事をする、洗濯や掃除をする、会議に出る、友達と会う、などなど…。その合間にスマホをいじることも多いので、私たちは1日中「何かしている」ことになる。
そう考えると、本当の意味で「なんもしない時間」って実はほとんどないんじゃないか、ということに気が付いた。
その中にあって、私にとって車に乗っている間は「名前のない時間」だ。
ただ車に乗って、景色を眺めて、ボンヤリするだけ。心に思い浮かぶものを、ただ流れに任せて、ゆらゆら漂わせるだけ。「名前のある時間」の間にぽっかり生まれた、「名前のない時間」。何にも追われていないし、何を追う必要もない時間。
ちなみに私は、車の中で本を読むことはおろか、スマホを見ることもできない。車酔いしてしまうのだ。でももしそれができてしまったら、こうしてボンヤリする時間はなかったかもしれない。本読んだりスマホ見れなくてよかったー、と思った。
そういえば最近哲学の入門書をかじったのだが、身分制度ができたことで支配者となった人が、労働しなくていい代わりに考える時間が増え、そうして哲学が発展してきた節があるらしい(超ざっくり)。昔の人もこうやってぽっかり生まれた時間で色々考えてたのかなぁ。…ってことは、私が今やってることも哲学?!哲学って案外身近にあるものなのかもなー。
そんなことを考えていたら、バスが目的の街に着いた。
なんとも言えない安らぎを感じながらバスを降りた。
写真は、今日バスに乗りながら撮った写真です。なんてことない車道沿いの風景。
ちなみにこちらのバスに停留所はなく、自分が降りたいところで運転手に声を掛けます。声をかけるといっても、運転席が遠いこともあるので、その時は大声を出して手をあげたり、小銭で窓をカツカツ叩くと止まってくれます。結構ぶっ飛ばして走るので、本当に降りたいところで声を上げるとそのまま通過してしまう恐れがあり、自分が降りたいところの少し手前で降りたいですアピールをするのがミソです。ボンヤリしている中にもそれなりの注意力が必要になることを付け加えておきます。笑
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?