わかりやすいもの
時々、思う。綺麗なものだけに囲まれて生きたい。漢字で書いた綺麗、のように、直線と角で成り立つような分かりやすい綺麗、に、囲まれて生きたい。そして出来ることなら、私自身がその綺麗、になってしまいたい。和語と漢語と外来語とでは、和語の意味範囲が最も広いのです、と書かれてあるのを見たとき、本当にそうか?と疑問に思った。でも確かに、形容詞が含み持つ内容の広さは計り知れない。美しい、なんて、感性そのものを示している気がして恐ろしくて使えない。
わかりやすいものがいい。雨を吸った土の匂いとか、透き通りそうで通らない蓮の花弁とか、湿気で息をしているような家の廊下とか。夏の夜、茶の間のテレビは野球を流して、窓は開けられて網戸越しに虫が鳴いていて、父はギターを弾いていた。あまりに何度も歌うから覚えてしまった歌詞の意味はわからないまま、妹と2人、乗っかって歌った陽水、そんなものも、わかりやすくていい。
善悪の基準が、世の中と個人とで違うことに気付いたのは、つい最近のような気がする。世の中の善悪は、建前の善悪だ。友人にお金の相談をされたとき、パートナーとの関係を悩むとき、子どもの素行を考えるときなんかに、注意深く選んだ言葉からそれは立ち昇ってくるような気がする。誰も傷つけず、真っ当だけど、個人には少しも寄り添わない、でもそれが相手を安心させるような。
個人の基準はきっともっと生々しい。私の快不快に、それは直結しているから。ふくらはぎの怠さや、微かな頭痛や、視界がひらけた時のようなひどく高揚する心と、完全に繋がっている。でもそれだけでは人の間で生きていけないと知っているから、当たり障りのない世間の善悪との中庸を探している。
だから、綺麗なものになりたいと時々思う。私の快不快が世の中と一致してしまえば、それ以上生きるのに楽なことはないだろうと思う。
雨が降りそう。外で鳥が鳴いている。
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