土壇場 本編

その夜、どうしようもなく不安が襲ってきて、わけのわからない恐怖で眠れずにいた。時々起こるこの感じは、夜のせいなのか、僕が弱いからか、理由も何もわからないけど、急に僕を襲ってきて僕の夜を奪う。

僕はこの不安を打ち消したくて、壁側に体を向けて、布団の上で体を縮めてかたく目を閉じて深呼吸した。それから何か楽しいことを思い出そうとして、けど出来なくて、そのうちに息を吸ったらいいのか吐いたらいいのかわからなくなって、苦しくてもがくように反対側に寝返りをうつと、左の脇腹がずきりと痛んでハッと息を吐いて目を開けた。

目を開けた僕の視線の先、窓のそば、そこに首のない女が立っていた。

それが女だと分かったのは、フリルやレース、リボンのついた胸の膨らみとウエストの細さが強調された丈の短いワンピースに膝上の靴下、厚底の靴という出で立ちだったからだ。だけどその身に纏う全ては僕が今までに見たどの黒い色より深く飲み込まれそうな黒だった。反対に鎖骨から頸部、腕、ふんわりと傘のように広がるスカートと靴下の間の肌は青白く、まるでそこだけ鈍く光るようにさえ見えた。

首、つまりは頭部がないのに女は僕に話しかけてきた。女の身体の中から響くような、僕の身体の中で響くような、優しいその声はとても心地よくて、不思議と怖さを感じなかった。
「あなた、2日後の夜に死ぬわ」
女は優しく甘い声で僕に余命宣告した。
「…君は、死神?」
発した僕の声はカサカサとしていて、何だか少し恥ずかしかった。
「いいえ。死神は私が逃げ出さないように、私の頭を持って遠くから見てる。死神はこうやって時々人間の命で遊ぶの。残された数日をどう使うか見て楽しむの。悪趣味よね。きっと暇なのよ」
「僕は死神の暇潰しに選ばれたってことか。ははっ、すごいや」
「あなた、変な人ね。死を前にして笑えるなんて。同じように死を宣告された、ある人は憎い相手を殺して、またある人は持てる財の全てを使い尽くして、死んだ。あなたは残された日をどう使う?」
女の問いに僕は何も答えられなかった。

例えば死神の世界に死という終わりが来ないのなら、その永い永い毎日に刺激を求めても不思議じゃない。子供が公園で蟻を潰すみたいに罪悪感がわくこともきっとないんだろう。
残された日を知らされた僕は、もしかしたらとても幸運なのかもしれない。

朝を迎えても、女はまだ僕の部屋に居た。夢でないことはそれで分かった。女は何も言わず、ただ『見て』いるだけのようだった。
僕はいつも通り祖母が用意してくれた朝食を取り、学校へ行く身支度を整えて玄関を出た。

学校から帰ると部屋に女の姿は無かった。僕は祖母の部屋へ行き、いつも通り内職を手伝った。5本指の靴下を作る時に出る糸端を専用の針で内側へ引き込む。
「ヒロ、ばあちゃん晩飯の支度するから、あんたも自分の部屋で勉強しといで。受験生なんだから」
「大丈夫だよ。ちゃんと夜やるから。ばあちゃん、いつもありがとう」
祖母は僕の頭をくしゃくしゃと撫でて台所へ立った。

深夜、勉強を終えて布団へ入ると、女が現れた。女は僕に近づいて、布団の側でしゃがみこみ、掛け布団を剥いで僕のパジャマの上着の裾を掴んで捲った。
「あなたいじめられてるんでしょ?」
女は僕の左の脇腹の痣に青く光る指先で触れた。
「…かわいそう。ねえ、相手を殺したいと思ったこと、ある?」
触れられている痣は女の指先で確かに僕の内側へ少し押しやられているのに、痛みは無かった。
「どうかな。暴力を振るわれるのは痛いし、苦しいし憎らしく思うよ。だけど、かわいそうなのはどっちなのかな。誰かを貶めることでしか気持ちを保てないあいつか、いじめを受ける僕か。僕は力が弱いから、あいつにはかなわない。だけど心まで屈してはいないと思う」

「ヒロ、まだ起きてるのか?」
襖の外から祖母の声がした。パジャマの裾を直して布団からさっと立ち上がりしゃがみこむ女の隣を通って襖を開けると、祖母は心配そうな顔をしていた。
「ごめん、少し眠れなくて、動画見てた」
「ホットミルクでも作ろうか?」
「ありがとう、でも大丈夫。もう寝るよ」
僕は笑って祖母の肩を擦りながら祖母の体の向きを変えた。そして祖母が部屋へ戻るのを見届けて襖を閉めた。女は立ち上がりこちらを『見て』いた。

2日目、死神の言う僕の最後の日。僕はやっぱりいつも通り過ごした。
ただひとつ違ったのは、あいつが僕を殴った時、痛いと感じることも、もしかしたらこれで最後なのかと思ったら、何だかおかしくなって笑いが込み上げてきた。殴られて笑い転げる僕に恐怖を感じたのか「何だよ、キモいな」って言ってあいつは後ずさって逃げた。

内職の作業中、祖母は首をまわして肩を擦った。僕は靴下と針を置いて、祖母の後へまわり少し肩を揉んだ。
「ばあちゃん、歳食ったな」
「ははは。もう70だからな」
「まだ死ぬなよ」
「ヒロよりは先に逝くさ」
「僕がばあちゃん孝行できるまで死ぬなよ」
「ヒロはいつもばあちゃん孝行だ」
それからふたりの「ありがとう」の言葉が重なって、大笑いした。

その夜、眠りにつく前に女はまた現れた。
「死を宣告されたのに、あなた何もしなかったのね」
「僕には祖母しか肉親が居ない。だからこそ大切な祖母を悲しませるようなことをするわけにいかない。祖母がうしろ指を指されながら生きるなんて嫌だ」
「残される人を思いやれるのね、あなたは」
もし本当に僕が死ぬのなら、祖母へ感謝の気持ちだけを残したい。
「もし死んだら、君の顔を見られるのかな?」
女は何も言わなかった。

僕は3日目の朝、いつものように目覚まし時計の音で目が覚めた。そして気付いた。死神は3日目の朝を迎えた人間が、2日の間に自分が選んだ行動を悔いて、そして破滅するところを見て楽しんでいたんだと。死神は本当に悪趣味だ。
まだ女は僕の部屋に居た。静かに立つ女に僕は声をかけた。
「君の顔が見てみたかったな」
すると、天井をすり抜けて真っ黒な煙のようなものが降りてきた。胸がざわざわするような引き込まれてしまいそうな深い暗闇のようなそれはゆらゆらと揺らぎ、少女の頭を抱えていた。
女が頭を奪われていた理由は、その表情から嘘や不安を読み取られないためだった。少女は胸が痛くなるくらい悲しい表情をしていた。弱い弱い僕だけど、もしこの目からビームでも放つことが出来たら、君の頭を持って高みの見物をきめてた、死神にぶっ放してやりたい。
深い暗闇のような揺らぎに抱えられて泣き出しそうな少女に笑いかけると、目をそらして瞼を伏せた。揺らぎは少女の頭を体に戻してすうっと消えた。
「僕らそんなに歳も違わないのかな?」
僕が声をかけると少女は目を開けた。
「たぶん。私が死んだのは今のあなたと同じくらいの歳だったと思う。余命を告げられて私は何も考えずに憎い相手を殺してしまった。そして3日目の朝を迎えて、絶望して自ら命を絶った。それからずっと死神に囚われてた。あなたが私の、死神の言葉に騙されないで生きていてくれて、うれしい。ありがとう」
少女は僕の目を真っ直ぐに見つめて、泣きながら微笑んだ。少女の涙が頬を伝うとその体からじんわりとまばゆい光が沸き上がるように発せられた。とても綺麗だった。光は徐々に激しさを増して、僕は眩しくて目を閉じた。
目を開けると、そこには誰も居なかった。

僕は騙されてなんていなかった。
目を見て話さない奴の言葉は信じないことにしている。それは祖母が僕に教えてくれたことだ。
だって信じられるものはきっと、僕をつくりあげた『もの』や『こと』だけだ。

こうして僕は今日も、生きる。

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