菩薩は人間の形をしている?
昨今のコミュニティブームによくある「救い」って何だろう?
例えばこんまりさんは、アメリカまで行きNETFLIXまで使って、「人を救おうとしている」。必要か不必要かの判断力が物質過多の現状で鈍っているという事実を「過去と向き合わせる儀式」をあえて設定し、知らせようとする。「まず、持ち服全てを家中から集めて、ベットの上に山積みにしましょう♡」と言うこんまりは、「こんまりが来るのを待っていたわ。早く魔法でうちをキレイにして!」と甘える顧客に、とっても冷たい。「片付けるのは、あなた自身です。私はその手助けをするだけです。きちんと、自分の過去と向き合いましょう」と言い放つ。こんまりが多くの人に受け入れられたのは、単なる片付けという作業ではない。人生の片づけ、自分自身との対話の方法の伝授によるものが大きい。
そして、その過程を受け入れた多くの人は「泣く」。
また、私の大好きな料理家の土井善晴先生は「一汁一菜でよいという提案」発表以降、家庭料理を作る老若男女にとって"今"必要な言葉を深く深く深く掘り下げ、伝えようとされている。その思想性の深さから最終的な言葉がかなり単純化していて、詩的でさえある。「これでええですやん。」「なんでいかんのですか?」の言葉の裏付けは長い時間をかけて試行・思考されてきたからこそ突き刺さる言葉だ。そして結果、多くの主婦的仕事の従事者を「救っている。」Amazonの土井先生書籍レビューでは「泣き」の感想ばかりだ。レシピに踊らされない、自然を軸にした、情報に振り回されない食事作りはこれからコロナでどう転ぶか分からない食糧事情においてますます明るい灯火になるように思う。
もう一人私の気になる方として、石田勝紀さんという教育者がいる。ママCafeコミュ二ティというものを作り、子育て中に子どもとのやりとりの中で使う言葉について、細かくて丁寧に説明し、怒らないで叱るなどの視点を明らか分けながら、イライラしない子育てを提案されている。迷えるママさんたちの駆け込み寺だと言えるし、そんな新しい視点が、大変容する現代社会の渦中で奔走する母親の不安を「救っている。」
コミュニティにはいろんな種類があるだろう。探求したり、遊んだり、作ったり、見せ合ったり・・・。土井先生に関してはコミュニティをアプリで作っている形。たまたまわたしが見かけたものがそうだったかもしれないが、「コミュニティが人を救う」は結構ポイントではないかと思う。そこには、人間の形をした、菩薩のような人間(ファシリテーター)がいるのも面白い。菩薩も苦しんできた人間で、同じ苦しみにあっている人間を放っておけない、そんな願いから立ち上がるんだろうか。
翻って、お寺の組織はどうだろう。コミュニティとして組織されているだろうか。こらからのコミュニティはクラウドファンディングなどを駆使しながら、今までの形とは違うものになってくる。というか、とっくになっている。それがこの引き込もり生活で加速しているのは自明の通りで、外から見れば最も菩薩という言葉に近い「お寺」におけるコミュニティの形の変容については?本格的に取り組まないとならない問題だと思う。
そして、そこの真ん中に立つ菩薩も、一度は「泣いた」のだろうか。
今後お寺の坊守【BM】を盛り上げるための資金にいたします。