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宗教論

時にこの本……というにはあまりにも薄すぎるこの一冊にまとめられた筆に思いを乗せようと思う。上座の一人で精進するという思想が、自己責任で自分主義のように見えてしまい、大乗がまるでこれからの日本社会を比喩していて、上座は実に資本主義社会らしい考えだと言わざるを得ない。

この場合の上座と大乗は仏教の宗派的な話であることは閨秀な皆様に確認として伝えておこう。

いや、別にこれを読み進める読者が女々しく、媚びて、嫉妬したプライドと言う名の枷を、業を背負っていることを揶揄っているわけでもない。そもそもこの筆が頒布されるのは我らが工業大学で、理系大学だ。本を好んで読む人は少ないと思う。

なので、私がこのページに辿り着く物好きを嫌うわけがない。いびるわけもない。この場合、姑が将来の妻を、将来のあなたを、虐めると言ってもいいがそろそろ飽きてきた頃だろう。別に私はミソジニーではないからだ。私もこの前置きに飽きてきたところだ。もし、あなたがここまでの筆を好いてくれていたら、私にとってそれは嬉しい。

つまるところ場所を提供してくれたこの一筆と、読んでくれるあなたへ感謝を伝えたい。さながら王の寵愛を受ける妃の如く、尻尾を振ってみる妄想をしながら、あなたに委ね、この短編は始めよう。

話が大きく逸れてしまったがこれは私の手癖である。一度筆を持つとゆらゆらと動き出して感情を乗せてしまう。

さながら現代の日本社会のような大乗仏教だ。動くのは自分なのに、他人に身を委ねる我々だ。私が書きたいと思うとこの頭ではなく、手が動くままにつらつらと書き進めてしまう。そんなのらりくらりで所在の無い文をお見せしようと思う。

別にこの短編は私の宗教観を語るつもりはあまりない。強いて言えば、神はどこにでもいるし、どこにでもいない、なんてどこかで聞いたことがあるだけである。私の筆は日本人が好きそうな言葉遊びで、所在の無い、責任を持たない屑男のようだ。

ところでだが、ここまで飽きることなく目を通した風変わりな風流人は数字というものは好きだろうか?

私は好きである。いや、嫌いな人はいないだろう。数字が嫌いな人間は中々いないものだ。なおさらネット社会で、自分の価値を嫌でも可視化される社会で数字が嫌いというのは無理がある。それすらも否定……というか私の解釈を入れるなら、無関心な人間がいても嫌いな人間はいないだろうという推測に過ぎない。

不遇な家庭環境を過ごした私も、自分の異端を知った彼も、入学式の隣人が異常者で友達を作ることに意気消沈した彼も、私より身長が30センチ低い先輩も、皆、例外なく数字が好きである。

別に不幸だから数字が嫌いなわけではない。幸せだから数字が好きなわけでもない。

常にそこに居て、常にそこには居ない。

なんて、どこかで聞いた文言を浴びせてみることにしよう。これは私からのカミソリの入ったプレゼントであり、罰だ。

いや、こんな駄文を並べた挙句に敬愛する読者を罰するなどという愚行を許してほしいとは言わない。これは警告である。私の背負う業というかカルマを押し付けようとしているのだ。

数字にまつわる怖い話、怖がらせる私。

常に2人が存在しないとこの対話は成立しない。

あなたがこの一筆に一重の希望を賭け、筆の重みが欠けた薄い本に、一千の時間と一銭を懸け、一線を越えたのだ。

なら私の好きな数字についての話を聞き切らなくてはならない。ここまでのバースは私にとっての最高傑作なのでこれ以上は追及しないことを勧める。

時に、この薄い一冊の本を取った老若男女よ。もう一度質問するが、好きな数字があるだろうか?

私は数字の中だと少し悩むが3が好きである。

きっとあなたは頭の中でグロタンティーク素数が浮かんだことだろう。きっとそれも少なくないはずだ。

正直、我らが工業大学に在籍する上で、他人の揚げ足を取る数字が浮かび上がった人間はいないと信じたい。まだラッキー7といった、あまりに幼稚な数字の選び方のがましだ。

だが、ラッキー7というのは、別に今回の話の本筋を大きく外れていない。

私たちは常に幼稚なのである。幼稚で無知で有地だ。

この世界で地面を感じて、常に何もしらなくて、幼く拙い。私は宇宙を見て、数字に思いを馳せてしまう。

危険信号のように天文学と言うものは常に数字が背後に付いて周る。夏の大三角形とかだ……いや冗談だ。天文学的確率が夏の大三角形を示すなんて言ったのは私が初めてだと思う。きっと、世界中を探してもこんな人間がいるなどそれこそ天文学的確率だと思う。

話は戻るが、私がこの3という数字が好きな理由はもちろん存在する。

私がこの数字が好きになったのは高校時代に遡ることとなる。

それは一人の数学愛好家から伝えられた言葉だ。彼とは年は離れているが私の最高の友人に数えても良いと思う。その友人は私のことをもう忘れてしまっているような気がするが、濃密な時間を過ごしたことは間違いない。

時に、その愛好家たる彼の正体だが、同級生でもなければ後輩でもない。もちろん先輩でもなければ親でもない。では誰なのか?もしや、学校の先生かと思われるかもしれないが近からず遠からずだ。だが、私は偉そうなやつが嫌いなのでそれも違う。

なら誰か、形容するなら子供専用のホストとでも言おうか。

これはとある田舎の、塾の講師の言葉である。田舎の片隅、県境の、教育について一欠片の興味もないくせに親にぶち込まれた塾で、私はそいつと出会ってしまったのである。

憎むべき、妬むべき、好むべき友人に。

別にそいつは嫌な奴ではない。多分、私のペースに合わせてくれていたのだろう。話というのは一人で話すものではない。相手がいて初めて成立するものである。

そいつはとんでもなく多趣味だった。

モンスターを戦わせるゲームから、モンスターをハンティングするゲームから、モンスターをお世話するゲームと……今思うと多少の片寄りはあるがこれも表現上の偶然ということにしておこう。

そして、その友人に私は一つの問を渡された。

好きな数字は何か?……と。

当時の私は高校3年生だった。3年生というと受験期である。彼の紫紙の文言で生まれた罵詈雑言は、教室の中の一つの異分子に腹が立って生まれたという経緯は秘め事にしよう。

これはその異分子へのストレスから解放された少し後の出来事である。私の心は青く広がる空の陽の元で、蝉の鳴く声のように澄み切ったものだったことを覚えている。

そんな時に聞かれた質問とその答えだから覚えているのだ。人は困難があると成長すると言うがそれは嘘である。人は一歩前進し、元あった場所に戻るだけだ。別に成長などしていない。

その苦難というやつが、空っぽだった心に流れ込んで満たしただけで月の満ち欠けのように、さながら生理現象のようになるようになっただけだ。

そして、虚ろになった心に問われたどうでも良い質問が、今も私の心を満たしているのである。そう考えると私を成長させるのは苦難でも、成功でも、失敗でもなく、どうでも良い雑学ということになる。道理でこんな雑な人間が育つわけである。

雑食にも程度という物があっても良いと少し悲観することになってしまった。なぜこの筆でこんな悲しい思いをしなければならないのだろう。

ところでだが当時の私は生意気にも2と答えた。あまりにも愚かな解答だったと今でも悲しくなる。

私はその特性に惹かれていた。最初に出る偶数で、素数という唯一無二性に。

その答えを聞いて肩をがっくりと落とし悲しんだのが私の友人だ。

彼の答えは私のプラスワンだった。だからこれは友人の受け売りである。

だがここで当然の疑問が浮かぶと思う。なぜ3なのかと。なぜ3でなければいけないのかと。

3が好きということはその回答に至る必然性があるはずだ。

だが、その友人の理由というのは悲しくも私の回答のプラスワンだった。

最初に出る偶数で素数という唯一無二の数字の隣であり、最初にでる素数ではない偶数である4に挟まれているという特異な性質、そしてその唯一無二性だ。

つまるところこれが理学部数学科を卒業した彼の答えだった。

数字というものは不思議なものだ。なぜなら3という数字以外で、素数と偶数が隣合う素数はない。同じく2という数字は唯一無二の性質を持っている。

しかし、これでは当初の問と少しずれると思う。なぜならこれは私の答えと根本的な理論が同じだからである。変わらない。どちらも同じ理由だ。可も不可も、良も、優も秀もない。

私はあくまで一つの数字の性質に注目したわけだが、彼は目線を広げた、達観していた。広い視野を持っていて、その眼鏡の度が合っていることを示していた。

よってこの答えに優劣などない。2と3の間に上も下もない。成績表もない。そこにあって、どこにもないままだ。

つまり、これでは問に答えが無いのである。そもそも好きな数字に優劣が付くのがおかしい話だ。これもこの社会の歪みだろう。私はそう思う。

ならば答えを作り出そうと思う。他に理由を付け足して正当化してやろう。

完璧に、超人的に、超越的な理由を足していこうと思う。文系らしく、文芸部らしく、貼り付けてやろう。のりしろにペタペタと貼り付けよう。子供のように、自由に無邪気に書き連ねよう。

なぜ我々が数字の3を好きでなくてはいけないのかを語り、騙ろう。

古今東西、老若男女、我々は2つの数字に支配されている。ここまでの話は全て前座である。遠回りしすぎたのは言うまでもない。遠くて短い、物語。いや、物を語っているのは常に私だ。という冗談は置いておこう。

ところでこの2つの数字という物が、何か分かるだろうか。少しだけ考えてみてほしい。

答え合わせをすると2と3である。この数字は常に進歩と安定を我々に示してきたと言っても良い。

大きい数、小さい数。長い物、短い物。富める者、貧しき者。過去、未来がある。

常に物事は二極に表される。古代中国文明を支えた陰陽思想だ。

この場合、この思想、哲学は正しかったと言えるだろう。今も、人はこの思想に基づいて物を考えている。それこそ、男と女、資本主義と社会主義、上座と大乗、無神論者と狂信者のように二者択一で、二つに一つだ。二兎を追う者は一兎をも得ずという言葉があるように、同時は無理だ。

男でもあり女でもある。資本主義でありながら社会主義でもある。上座仏教でありながら大乗仏教でもある。無神論者でもあり、狂信者でもある。

少し頭を捻れば出てきそうなものだが、根本的な思想が違う。

さながら、陰と陽で表された混沌である。

だが、これは愚かな考え方であることを知っている。常に二極化された思想は危険だ。

それは現代を生きる我々は知っているだろう、悟っているだろう。もしこれが正しく、完璧なら五行思想なんて物は生まれない。

五行思想とは5つの属性とそれぞれの相性の話である。火、水、木、金、土の相性論である。

ゲームの相性論みたいな話だ。水は火に強くて、雷に弱いみたいな話だ。

相性と言えばこの数字論に欠かせないゲームがある。

3つの手を出す国民的なゲームがある。そうじゃんけんだ。

勘違いしないでほしいが、別にじゃんけんの必勝法を語り、騙るわけではない。個人的にはパーが強いような気がするがそれはまた今度にしよう。じゃんけんで何が一番強い手か、こっちの方が、私の筆よりもよっぽど将来の役に立つことは言うまでもない。

と、冗談を挟んだが、本質はそこではない。問題はそこではない。

今回の話的になぜその数が3なのかということに注視したい。

これがただの相性論なら、3でも5でも7でも良いはずだ。なぜ、3である必要があるのか?その必然性と理由があるはずなのである。これは別に、じゃんけんに限った話ではない。

信号も、坊主も、石の上も、正直も、仏も、言葉に限らなければ座標もそうである。X、Y、Zと並び今日、理系を悩ませている。

だが、これらの共通点はいづれも3である。5でも7でもない。

100個の配色がされた信号機も、100日参りをする坊主も、100年も石の上にいる人も、100面相の仏もいない。いや、仏に限れば100面相で100回許す方が人間には適していると思う。

そんな甘々な仏も常に間違いを背負い続ける人間にとってはありがたい存在だと思う。むしろ諺的にはこっちの方が意味深そうですらある。

100式観音の顔も100度まで……いや顔は100個なのだから1回しか許してはくれなそうだ。一度でも許してくれるだけ寛大なのになんだかケチ臭いようにも思えてきた。

だが実際、仏は3回も許してくれる。100式観音の顔も100度までという、なんだか朝三暮四の猿のような感性を持った私でも、脳みそは猿並みではないので分かる。

しかし、100式観音の顔も100度までという言葉が存在しないのが不思議な気がしてきた。1個の罪でも許してくれるだけ寛大だ。現代社会で他人との関わりを失った人間にとってはこれは寛大な措置だろう。性癖一つで罪に問われ、メディアに晒される現代社会ならその小さな罪を許してくれることは嬉しい限りだ

でも、そんな言葉は存在しない。一度しか許さない神は存在しない。それはなぜか?単純に考えるなら語呂が悪いからだろう。

100面相の観音も、100日参りをする坊主も、100年も石の上にいる人がいないのは語呂が悪いからだと思う。

なら理由はそのスムーズさによるところと言える。じゃんけんの手が3つなのはゲームの進行性、快適性、安定性を上げるためだと言える。じゃんけんの手が100だったらここまで普及しなかっただろう。この場合、100個のじゃんけんは存在しなくても101個が存在するというギャグはその辺に捨て置くことにしよう。そんな冒涜的なじゃんけんは存在してはいけないだろう。邪道で邪教だ。まるでリスペクトが感じられない。しかし、それはそれで面白そうだ。

じゃんけん、朝昼晩、界、時間軸と3という数字は常に私たちを見守り、監視している。

むしろ、3という数字にまつわらないことの方が少ないと言えるだろう。

あやからない方が不遜であると言えるだろう。

だが、ここまで私が数字の3に注視してその偉大さを示して、これからは好きな数字、いや、尊敬する偉大な人物に3を挙げたくなる頃だろう。

確かに私たちは、常に尊敬する人物に様ではなく『さん』を付けることから一定の距離を保ちながらも、敬意を払うその敬称は私たちの遺伝子に受け継がれ、遺伝され、継承されてきたと言える。

と私の語りに、いや騙りに付き合ってくれた皆様に改めて感謝を伝えたい。プロットもなく、道筋もなく、文脈もないこの騙りを読んでくれたあなたに感謝を伝えさせていただきたいと思う。

私はこの一筆を宗教と呼ぶ。あなたたちはきっと好きな数字に3を挙げたくなった頃にこの事実を突きつけて、突き刺したいと思う。心臓を抉り出して神に捧げてやりたいと思う。

さながら、煙を吐く鏡のように、黒曜石の鏡に映る4人で1人の神に捧げてやりたいと思う。

これは宗教だ。こんな偉大な数字も、尊敬すべき数字である3も、いや3という数字一つですら不吉な意味を持つ地域はある。

日本はたまたま中国の影響を受けているから……いや世界的に見ると3はラッキーナンバーだ。しかし、我々が4や9を嫌うように、ベトナムでは3が嫌われる。いや、日本でも3が嫌われることはある。三つ路地は密路地にもなることから、厄が溜まりやすいという話もある。これは賛辞であり惨事でもある。

しかし、そろそろオチをつけないと原稿用紙が私の駄文に塗りつぶされて、それこそ大惨事になってしまうのでそろそろ切り上げようと思う。

時にこの本を手に取ったあなたはどんな生き方をされているだろうか。

私は常に凡庸に、平凡に、在俗に、中庸に生きたいと思っている。

時に、その生き方を批判され非難されることもある。しかし、これは私の生き方であり宗教観である。

常に中庸に生き、そこにいるようでいないように生きる。

常にそこにいるようで、常にそこにいないのが神であるならば、私は常にそこに居て、常にその場に居ないのだと思う。

二極化されることが多々あるこの世界で、常に三味し、達観することこそ宗教と言うのではなかろうか?

私は数字の2が好きである。私は争いを見るのも、争うのも好きだ。なぜならそこには神が介在する。だが、別に3が嫌いというわけではない。争わない3が嫌いというわけではない。安定が嫌いなわけではない。

昨今、この考え方はダブルスタンダードと言われるが、それでも良いと思う。なぜなら、2が好きということは3が好きでないことを内包する理由に足らないからだ。

これもまた、真ん中を消そうという考え方だろう。なんとも急進的で先進的だ。だが、現代の思想、さながら哲学を否定している。

ところで、なんとも掴めないような顔をしているあなたへ私からの助言をさせていただこうと思う。もうこれで最後だ。

ここまで散々2と3について語ってきたが、私が一番好きな数字は7である。なぜならこんな机上の空論よりも、ご縁にあやかり、ラッキーナンバーを妄信する方が私にとって心持ち穏やかだ。

こんなどうでも良い理屈にあやかるよりももっと大事な物が近くにあるはずだと私は思いたい。

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