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尊王攘夷を旗印にした諸侯は?

中国の戦国時代

中国の王朝の歴史を古い順から並べていくと、(夏)、殷、西周、東周、秦、前漢、後漢と続きます。

原先生のキングダムは秦の始皇帝に仕えた李信将軍の話でしたね。

三国志の時代は後漢末から三国鼎立の時代になります。

戦国時代は東周の後半なのですが、どこからを戦国時代とするかは諸説あります。

終わりは始皇帝が斉を滅ぼして中華を統一したBC221年とするのが一般的です。

ちなみに東周はBC256年にすでに滅びています。

秦の都が西の辺境あたりから東の咸陽まで移動していったことは以前にお示ししました。

斉の都

まず、秦の始皇帝に最後まで抵抗した斉の都について見ていきましょう。

西周の武王は殷を破って周王朝を開いたのですが、武王とその先代の文王の軍師として仕えたのが呂尚です。

有名な太公望さん。

武王は有力な家臣を各地に封じて、いわゆる封建領主としたのですが、呂尚は営丘に封じられました。

呂尚は正式には太公または斉太公。斉の君主は代々、斉公となります。

営丘はのちの臨淄(山東省淄博市)です。

これが斉の始まりで、秦よりも古く、西周の建国と同じという、すごい歴史のある国です。

さらにすごいのは秦のように遷都を繰り返すのではなく、短い時期を除いて、ずっと営丘を都として山東の辺境を抑えていました。

ちなみに山東とは太行山脈の東ということですね。山西は太行山脈の西。

周王朝の初期には、斉は周王朝に忠実で、反乱軍の討伐などをしています。

春秋時代の斉

山東地方は農耕に適した土地が少なく農業生産量は少なかったのですが、海に面していたことから漁業や製塩が盛んで、斉は豊かな国だったようです。

斉の北西に燕、南東に魯、その南に宋、魯の西に衛があり、それらの大国の間に小国がいくつもありました。

燕の都は薊(北京市房山区)、魯の都は曲阜(山東省曲阜市古城村)、宋の都は商丘(河南省商丘市)、衛の都は楚丘(河南省滑県)。

斉は基本的には大国と同盟して小国を滅ぼして領土を拡大するという方針だったようです。

桓公即位

BC686年、襄公が殺され、公孫無知が第15代の斉公となり、公子糾は魯に、公子小白は莒に亡命。

翌年、公孫無知が殺されると、公子小白は素早く臨淄に戻り、桓公として即位。

公子糾を擁立しようとしたのが有名な管仲ですね。

桓公は魯を攻撃し大勝。魯は公子糾を殺し、管仲を獄に入れて許しを請います。

桓公は当初、管仲を殺そうとしましたが、鮑叔に天下の覇者になりたければ管仲を宰相にするようにと言われて、彼を重用します。

もともと鮑叔と管仲は仲が良かったようで、彼らは管鮑の交わりとして後世にも知られています。

桓公 覇者になる

BC681年、桓公は甄(山東省鄄城県)で宋の桓公、陳の宣公、衛の恵公、鄭の厲公と会盟し、盟主に推されます。

会盟の盟主のことを覇者と呼びます。

ちなみに春秋時代の会盟では雄の家畜の耳から取った血を諸侯が飲み干して盟約を守ることを誓ったそうで。

家畜の中でも牛が一番尊ばれていたために、牛の血が良く使われたようで、それが「牛耳る(ぎゅうじる)」の語源と言われています。

ところで何故、中原の諸侯は桓公を覇者としたのでしょうか?

当時、中原諸国は北や南の異民族等からの攻撃に悩まされていました。

桓公は豊かな国力を背景に強力な軍隊を擁し、これらの異民族から中原諸国を守ります。

宋や衛は桓公の軍隊が頼りなので、盟主に祭り上げたということです。

この時に使った旗印が「尊王攘夷」。

ここでの「王」はもちろん周王。一応、尊王ではありますが、自身が覇者となるための攘夷なわけで。

幕末ではイデオロギーのキャッチフレーズに使われていましたけれど。

ちなみに桓公は小国制覇も続けていて滅ぼした国の数は35!

BC656年、調子に乗った中原諸国は8か国の連合軍を編成し、南の蔡に侵攻。

蔡の都は上蔡(河南省上蔡県)。

蔡を破ると楚にも侵攻します。楚の都は丹陽(河南省淅川県)。

BC651年、桓公は宋の葵丘(ききゅう)(河南省商丘市民権県)に諸国の国相を集め会盟を主催しました。

これが有名な葵丘の会盟で、斉の全盛期でした。

の襄王は宰孔を派遣し周王室の祖先の祭祀の品を送り、事実上、桓公を覇者として承認しました。

後継者争い

ただ、管仲も鮑叔も死に、桓公も重病に陥ると6人の公子による後継者争いが勃発。

桓公は管仲が推していた公子昭を太子にして、宋の襄公を後見人としていましたが。

BC642年に桓公が死ぬと、斉の国内では公子無詭が擁立され、公子昭は宋に亡命。

宋の襄公は2度にわたって斉に侵攻し、軍事力で公子昭を斉公に擁立します。

しかしながら、このあとも血で血を洗う国内の混乱は続き、BC609年に6公子の一人の公子元が恵公として即位して、ようやく終息しました。

会盟のために諸侯の娘を后に迎えていたために、それぞれの公子の背後に各国がいて、劣勢になった公子は母親の実家の国に逃げて軍事援助を受けて、と言う感じ。

暗殺とクーデターが頻発する中、公子元が生き残ったのでした。

名宰相 晏嬰

恵公が死ぬと斉の国力はさらに低下し、BC589年とBC555年の2度にわたって晋に敗れています。

その後、斉公の権力は衰退し、臣下が斉公の廃位や即位を決めたり、斉公を暗殺するまでになります。

もちろん、臣下の間での勢力争いもありましたし。

ちなみに周代の身分制は、周王、諸侯(公)、卿、大夫(たいふ)、士の順で、卿や大夫はいわゆる自分の領地をもつ貴族に当たります。

詳細は省略しますが、この時期の権力闘争で、崔氏、慶氏、欒氏、高氏が滅び、田氏の勢力が大きく伸長しました。

田氏は陳の公子の子孫で桓公のころに斉に亡命してきたようです。

ともかく、景公により大夫の晏嬰(あんえい)が宰相となると、斉の政治はようやく安定します。

史記では晏嬰は管仲と並び称される名宰相とされていますが、孔子や孟子は必ずしもそこまでは高く評価していません。

ただ、諸国との戦争を控え、自身は質素倹約をし、国力の増強を目指したことから庶民にとってはいい時代だったのかもしれませんね。

姜斉の滅亡

ところがBC500年に晏嬰が死に、BC489年に景公が死ぬと、田乞はクーデターを起こして高氏、国氏を滅ぼします。

高氏、国氏ともに斉公の一族ですね。

田乞の子の田恒もBC481年のクーデターで簡公を殺し、その後、鮑氏や晏氏なども滅ぼして宰相となり斉の実権を完全掌握します。

鮑氏は鮑叔の子孫。

BC391年には田和は康公を海の孤島に追放し、BC386年周の安王は田和を諸侯に列します。田和も太公と名乗ります。

田和は田恒の孫。陳の公子だった陳完から数えると10世の孫になります。

ここまでを太公望の本来の姓から姜斉と呼び、ここからを田斉と呼びます。

ちなみに戦国七雄の斉はこの田斉のことですね。


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