父の最期の日

私の父は4年間の闘病の末、
とある秋の日の朝に
息を引き取った。


前日の午後から、父の入院する病院に向かった私が、
病室に到着するあと数メートルのところで、
看護師さんが慌てたように病室を飛び出してきた。

私を見つけて「あ!!娘さん!!今電話しようと思ったんです!
酸素濃度が70から上がらなくて………薬を入れても上がらなくて……
もしかしたら……今日中に……という事もありえます………… 」


数日前から、毎日顔を出す度に、
危険な状態だ、難しい状況だ、と言われていた事もあり、
驚きはしなかったが、
ここ数日の苦しそうな父を見る度に心が抉られて、
これ以上の苦しみを強いる事を、
私はもうやめたかった。


「お父さん、来たよ」と声をかけながら病室に入ると、
もう自力では寝返りも打てないほどの力無い身体で横たわっていた。


「苦しいね……」



4年前の、唾液腺がんの壮絶な手術で
嚥下機能と言語機能に障害が残った父は、
「あぁぁ〜……あぁぁ……」と
ほぼ聞き取れない言葉を吐きながら私を見て首を横に振っていた。
長く共に暮らしていた私には、その言葉が
「もういい、苦しい、もういい」である事は
すぐにわかった。


「うん、苦しいね……もう、眠りたいね…」


そう言うと、父は頷いた。


2〜3日前までは、
苦しいけれど鎮静は嫌だと言っていた。
そのまま死んでしまいそうで怖いから?と聞くと
「うん」と言っていた人が、

異常なほど我慢強くて、
癌の痛みが出てきても
ギリギリまで医療用麻薬を使わなかった人が、

オムツは断固拒否をして
ギリギリまで意地で自分の足でトイレに行っていた人が、

訪問リハビリ、訪問看護師、ケアマネ、
緩和ケア看護師、これまで関わってきてくれた
医療介護の人々が口を揃えて「本当に我慢強い人」と
言うくらいの人が、



「もう終わりにしたい」と言っている。



声をあげながら苦しむ父の身体をさすりながら、
私は鎮静を希望した。

担当医の外来終了を待ってる間も、
その悪夢のような時間は続いた。
何度も何度も声をあげて苦しむ父の目からは
涙が流れていて、
それを見続けていた私の心も、もう限界だった。

こんな苦しみの中で、意識がハッキリとしている事は
むしろ残酷で、意識混濁してしまえた方がどんなにいいだろうか。
呼吸器のパターンでくる人は
最期まで意識が落ちない傾向にあるから酷なんだと、
2日前にベテラン看護師さんに教わったが、
こーいう事なのか……

鎮静を希望しているから、
意識がある時間は今だけかもしれない、
そう感じた私は、
ずっと言えなかった事を伝えた。


「お父さん、ありがとね、色んなこと教えてもらったわ」


そう言うと、父は泣きながら首を横に振った。


「サッチ(私の姉)がね、お父さん大好きだよ、って、
そばに居てあげられなくてごめんね、って、言ってるよ」


そう言うと、父はまた泣きながら首を横に振った。



神様、ルートはお任せするから、
どうか、どうか、皆んなにとって最善の道に運んで下さい、
どうか、お願いします。


そう祈り続けていたところに、
担当医がやってきて、

医療用麻薬を追加して使っていけば緩和できるから
鎮静は使わない。今使ったらそのままスコーンと
逝ってしまう可能性がある、使わなくても、最期の時は近い、

という旨を私に伝えて去っていった。




麻薬を入れても入れてもこうなっているんだよ?
入れても入れても苦しさが勝って眠りにつけないんだよ?
あんなに我慢強い人がもう終わりにしたいと言ってるんだよ?
緩和ケアって何?なんのため?誰のため?


怒りと哀しさと止まらない涙と絶望で
おそらく酷い顔をしていた私に、
師長さんが必死に医師の判断の説明を繰り返し、
鎮静を使わない事への説得を続けた。


誰も悪くない、
誰かを責めるつもりもない、
プロにはプロにしか見えないものがあった上での判断なのもわかる、

でも、1日たったの数分しか患者を見てない医師は、
今のこの状況がどれほどの事を物語っているのか、
わかるだろうか……
たくさんの人を見送ってきたのだからこその判断?
その基準は何なんだろうか……
もっともっと苦しまないと、
パニック起こして暴れないと、
鎮静という判断をしてもらえないんだろうか……



これが、神様が用意した最善のルートなのだろうか………



眠剤を入れてもらってウトウトしながらも
たまに覚醒しては私の名前を呼ぶ父の横で、
私は何もできなかった。
医師に歯向かう事も、師長さんの説得を蹴散らす事もできず、
「大丈夫、いるよ」と言って泣きながら父の身体をさするだけだった。


夜勤の看護師さんがやってきて、
バイタルチェックをしながら、
父の様子を長らく観察していた。

尿の量や色、四肢の体温、橈骨動脈、足裏のチアノーゼ、
死期が近い人に見られる兆候の有無を
ひとつひとつ丁寧に観察して、
父の胸に静かに手を当て、顔をじっくりと見つめて、
私に、こう言った。


「………これは…苦しいですね……
もう一度先生に報告してきますね」



入院生活が5ヶ月を過ぎていた父は、
平均入院日数が1ヶ月の緩和ケア病棟の中では相当長く、
看護師さん達も父の性格をよく知っていた。


この日の夜勤の看護師さんは、
よく担当に就いてくれていた穏やかで優しい男性看護師さんで、
父の尋常じゃない我慢強さもよく知っている人だった。
だからこそ、
「もう終わりにしたい」と言うその背景にある苦しみを
医者以上に理解をしてくれていたのだと思う。


「先生、少しだけ鎮静を出してくれました。
呼吸抑制のリスクがあるので、
様子を見ながら慎重に使わなければならないですが、
いつでも使える準備をしておきますからね」


静かに、ゆっくりと、そう伝えてくれる看護師さんの言葉や存在は、
恐怖しか無かったこの残酷な現実の中で、
この世の全ての怖いものから守ってもらえたような気持ちにさせてくれた。


2〜3時間、眠剤が効いているかどうか、
眠れているかどうかの様子を見ていたが、
どうもしっかり眠れている様子が無く、
指や腕や足をしきりに動かしていて、
緩和ケア業界でいうところの「身の置き所のなさ」
のようだった。
眉間にもシワを寄せてウトウトしているが、
ふと目を覚ましては怯えたように私の名前を呼んで、
またウトウトする……というその状況が、
父の心身だけでなく、私の心身をも衰弱させていった。


再び看護師さんはじっくりと父を観察して、
私に「ゆっくり、ゆっくり、薬を入れていきませんか?」
と尋ねた。

私は「お願いします」と答えた。


その判断の基準はわからない、
鎮静を使っても使わなくても、もう死が近いのなら
苦しい顔をせずに……なのかもしれないし、
家族である私の事を考えてくれての事だったかもしれない。


どうであっても、看護師さんのその判断は、
私にとって、おそらく父にとっても、
正しくて優しいものであったように思う。


ゆっくりと鎮静を開始してから、
少しずつ父の眉間のシワが消えていった。
穏やかに、スヤスヤと眠っているようだった。

その顔を見た時、
きっともう、目を覚ます事は無いのだろうと理解したが、
声をあげて苦しむのを見続けるよりずっと、
穏やかな時間だった。



10時間ほどかけて、
ゆっくりと父の血圧は低下していった。


真夜中の静かな病棟に朝日が差し込む頃に
父の血圧は60になって、
素人の私でも見分けがつくくらいの、
「死前喘鳴」を確認した。


ずーーーーっと父の顔を見ていた。


これは「下顎呼吸」……かな……
と思いながら見つめていると、
呼吸が薄くなっていくのがわかった。


薄っぺらく息を吸って、
吐くまでに少し時間が空いて、
その間隔が長くなっていった。


そうして、



微かに息を吸った父は、


その後、
1分待っても2分待っても、
その息を吐き出す事はなかった。


ナースコールを押せばすぐに来てくれる事は
わかっていたけれど、
押さずにそのまま5分ほど、
私は父の身体をさすりながら労った。



よく頑張ったよ、
お疲れ様だったね、
もう苦しくないね、
長介が(父が可愛がった犬)待ってるから、
寂しくないよ、



少しだけ、気持ちを落ち着かせてから
ナースコールを押したら、
すぐに看護師さんが来てくれて、
病室に入った瞬間に全てを察したようだった。


私は振り絞るような震えた声で、
「15分ほど前から呼吸が変わって……たぶん……
5分くらい前に………止まった…と思います」 


看護師さんは、じっくりと労うように父に触れて、
当直の先生を呼び、


先生は深妙な面持ちで死亡確認をした。



今にも寝息が聞こえてきそうな穏やかな顔で
父は旅立っていった。



2024年の、とある秋の日の朝だった。





父を看取って、
はっきりわかった事が2つある。

1つは、
意外に父の事がけっこう好きで
大切だったんだということ。

もう1つは、
この4年間の私の父へのサポートは、
やりたくてやっていたんだということ。


両親は20年以上前に離婚していて、
2人の姉は道外へ嫁いでいるため、
4年前から始まった父へのサポート、
外来の付き添いや手続き関連全て、
私が1人で背負わねばならなかった。

自分の時間を奪われるどころか
仕事もセーブしなければならない状況が4年も続き、
収入も減り、育児と仕事と父のサポートで
自分の人生が乗っ取られているかのような生活だった。
何度も「早く死ねばいいのに」と思った。
物理的に手伝ってもらえなくても、
私はただ分かち合いたかっただけだった。
それすら叶わない日々の中で、
自分の宿命とやらを受け入れるしかないのだと、
毎日言い聞かせていた。


そんな私が、父を看取って、
はっきりと
「ぁぁ、間違いなく私は、やりたくてやっていた」
そう思えた時、


4年間の中で父のサポートを通して学んだ事が、
私の血となり肉となり、
こんなにも成長させてくれたんだなと、
感謝しか湧かない状態になった。


神様が用意したルートは、
こーいうことだったのか…と、
妙に納得した。




寡黙で誠実だった父と、
文句を垂れながらサポートしていた私に、
関わって下さった全ての方々に、
心から感謝します。


ありがとうございました。
















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