中年じじぃの(愉快な)主張vol.27
ペットについて(毒餌と感謝状について)
2024/11/1
私は、犬や猫が好きだ。
彼らが私を好きかどうかは知らない。
犬猫以外の動物や生き物も、総じて好きだ。
しかし足が無い生き物と、足が多すぎる生き物はダメだ。
例えばヘビ、うなぎ、ドジョウ、芋虫など、ニョロニョロ、ウネウネしたものは無理です。(鰻を食うのは大好き)
あとはムカデ、毛虫、ダンゴムシや、何かの幼虫など、足が多いくせに、静かに忍び寄る生き物。
あぁ、書くだけで鳥肌が立つ。
鳥は二本足で良い。
四つ足の動物はだいたい好きだ。冒頭に戻ると、犬や猫。
思うに、最近の彼ら(犬や猫)を取り囲む環境は、私の幼少時代のそれより、はるかに良い。
ちなみに、〝幼少時代のそれ〟とは、〝私の幼少期のペット環境〟ではない。〝私の幼少期の、私を取り囲む環境〟だ。
いまの犬や猫は、人間が食べた残り物(例えば焼き魚の骨や皮とか、ご飯に味噌汁や鰹節かけた猫飯(ネコマンマ)とか、その他、食べ残し全般)は、一切、見向きもしないらしい。
私が幼い頃、父親が酒を飲み始める頃合いを見計らって、父が食べ残した肉やら魚やら、何の肉かよく分からんソーセージなんかをもらって、喜んで食い、父親はそれを見て微笑んでいた。
私って、貧しい家の子だった?
いやいや、そんなことはない。
最近の犬や猫の生活が、私の幼少期のそれを上回っただけだ。
では犬や猫は何を食うのか。
それはもちろん、テレビCMでよく見る、ペットフードだ。食感が柔らかかったり、こだわりの食材だったり、なんで高額なのかよく分からん缶詰だったり。
私の幼少時代、野犬刈りのための毒餌が道端に撒かれていた。
私の両親は、「どんなに腹が減っていても、絶対に拾って食うな」と厳しく私を指導した。
その毒餌は、目立つように赤だかピンクだかで色付けされていたが、きっと私の他にも拾って食いかねない子供はいたのだろう。
飼っている犬や猫、その他の動物たちが死んだとき、庭に埋めて手製の墓標をたてるのが当たり前だと思っていた。
しかしいまは違う。
葬式を出し、墓を建てるのは当たり前。
仕事を休み、仏壇だか思い出の品だかを部屋に置き、粛々と喪に服し、悲しみを耐え忍ぶ。
きっと私が死んでも、もっと軽く扱われる。下手したら、庭に埋められるかもしれない。
私の妹の一家が東京都内に住んでいるが、彼女が飼う保護猫だか保護犬だかが、昨年死んだ。(いや、亡くなった)
すると、居住する区から、猫だか犬宛てに、感謝状が届いた。
『あなたは〇〇家で幸せに過ごし、寿命を全うしました。よく頑張りました』
まじ?
いや、ペットフードも葬式も弔事休暇もいいと思う。ペットはもはや家族だ。毒餌なんて絶対に食わせない。
ペット環境は私の幼少期のそれを追い抜いたと思っていたら、とうとう現在の私を追い抜いた。
私が死んでも、人生を全うした感謝状など、どこからもでないのは当然として、下手したら祝杯あげるヤツがいるかも知れない。
太古の昔から、犬や猫は我々の身近にいて、パートナーシップのようなものを築いてきた。
少なくとも私に関していえば、もはやパートナーどころか羨む存在だ。
いいなぁ、感謝状。
私が死んだら誰かちょーだい。
(続く)