冠婚葬祭。社交辞令の定型文を超えて、自分らしい言葉を勇気を持って使おう
お客様のお母様が亡くなったとのことで急遽、実家に帰られることに。一定の年齢だし、近々とは思っていたけど、とのこと。
お客様自身が自動車事故で亡くなられてしまった。突然のことで、本当にびっくりしてしまった。同僚の皆様にはなんと言っていいのか。。。
社会人になってから長きにわたってお世話になって来た先輩の弟さんが突然、若いのに亡くなってしまった。心筋梗塞。
ネットを調べると、このような場合に、口にすべき、あるいは、口にしてはならない言葉集などが検索される。
冠婚葬祭で、言うべきこと、言って良いこと、悪いこと。
礼儀?マナー?風習?習慣?伝統?
それはそれで別に良いのだけど、あえてそれを破ろうと思うわけでは全くないのだけど、こういう時だからこそ、自分の言葉で、自分の素直な気持ちを伝えたい。でも、なぜか、そうさせない圧力が、世間体の圧力をどうも感じてしまう。
言葉をたくさん知っている方が、自分の感情とうまく付き合える、と思う。表現できる言葉が少ないと非常に単純な思考・行動の人間になってしまう。
自分の気持ちが先にあって、それを言葉にするのではなく、逆かなと。言葉を知っているから、あ、この感情はこう表現するのだな、と定義できる。だから、豊富に言葉を知っていて、巧みに使えると、機微を伝えられるし、自分がバラエティ豊かな多面的な人間になれる、と思う。
そして、当然に、冠婚葬祭で「使うべき言葉」を知っていたら、それを伝えることで、先方も共通言語として知識があるから理解され、合格となる。自分の本当の気持ちとは違う話。だが、合格。
でも、なんかつまらない社会。彩りなき社会、なんて思う。検索して、覚えて、しゃべる。LINEする。縛られている。慣れないからケアレスミスも。「正しく」やろうとギクシャク。
やっぱり冠婚葬祭のときに、検索して出てくる「こういう時に使うべき言葉」だけでは、杓子定規であり、無味乾燥で、形式的で、心がないように思える。自分が伝えたいことはそれではないのだ、と。
だから、これら「こういう時に使うべき言葉」にプラスして、あるいは超えて、自分らしく、自分の本当の気持ちを、自分が知っている言葉をフル活用して伝えたい、と思う。そうさせない世間体の圧力を打破して!
なお、もちろん社交辞令の冠婚葬祭も多々ある。そんなときは、形式的な無味乾燥な世間体に適合した言葉が、素直な自分の気持ちだ。言葉を発した後にはその方のことなんてどうでもよくなり、次の自分の行動に移る。
ま、これは何も問題はない。社会とはこんな規範・世間体で成り立っているのだから。
自分にとって大切なひとが、悲しんでいるときに、あるいは、とても喜んでいるときもそうだけど、「冠婚葬祭用の使うべき言葉」を超えた、自分の気持ちを、自分の言葉で、暖かい言葉(粋な言葉)で伝えたい。それができる人間になりたい。そう思う。そんな社会の方が感情豊かで色鮮やかで自由な気がする。
世間体をちょっと打破し、自分らしく、不要なリスクかもしれないけど、大切なひとの心がちょっとでもより良い状態になるようにしたい、ボクとの会話を通じて。そして、そのためには、良質なあたたかい言葉を多く知り、その意味を深く知り、大切な瞬間に世間体に負けずにそれらの言葉を使える勇気が必要だ。
そんな風に思うのでした。
そして、言葉については、”まだまだ”。
だから、いつまでも勉強継続ですね。
お読み頂きありがとうございます。
(v9_56)