「謝罪」の習慣が逆に「悪事」を助長?謝ればいいじゃん!的な...
報道機関が、事実確認せずに報道してしまって、ごめんなさい。
会社でも、共有していなくてごめんなさい。間違った情報を伝えてしまってごめんなさい。やり忘れてごめんなさい。
お家でも、言われたことをやり忘れてごめんなさい。お皿を割ってしまってごめんなさい。。。
心からの謝罪もあれば、
単なるパフォーマンスの謝罪もあれば、
意図的なコトだったので、計画通りに前もって準備していた謝罪もあれば、
全く心のない、挨拶的な、言葉だけの謝罪もありますね。
人間が進化の過程で得てきたであろうこの「謝罪する」という習慣。言葉を話す前から、人間関係(んん、まだ人間ではない?)の円滑さ・許しの必要性の中で生まれて来たのかな、なんて推測するのです。動物でも、逃げる、諦める、しょんぼりするという現象と見分けが曖昧ながら謝罪の格好・動きがありそうです。
ふと思ったのです。
この「謝罪」の言葉・姿勢を人間が持ったことで、ウソや欺しなど相手を陥れること、相手を損させて利己を追求することが、ますます「発展」したのではないかなと。
「謝罪」ができるから「悪事」が「発展」してきたのかなと。
動物もウソはつきますね。お猿さんがライオンが来たぞ!と欺して、仲間が逃げているすきに木の実をゆっくり独り占め、とか。夫婦間でも相互に普通に浮気します。兄弟姉妹で殺し合います。育ちが悪くなった子供は親が自ら殺したり、交尾した相手を食べることもあります。でも、これらは強い個体を残す、種の保存のためなら!と本能ですね。皆が、一律に、同じ行動をします。誰かが特に悪いということはありません。人間はそうではありませんね。ま、みんな、ウソはつきますけど。。。
謝罪する能力を高めて、悪事もどんどん発展。謝罪の能力も発展。土下座?頭を下げて3分静止? でも、平気。だって、誤ればいいのだもの。これぐらいの悪事をしたのだから、意図的に、これぐらいの謝罪はへっちゃら。
だから、思ったのです。よし、まずは「謝罪」をしないようにしようと。そう決意。
少なくとも会社内で、仲間同士での謝罪はなしにしよう。
目的は、意図的な悪事、ウソ、偽り、誇張、逃げ、欺し、などをしないため。謝罪が御法度だから、悪事はできない、と思ってもらう。気をつけてもらう。悪事したのに謝罪できないと、そうとう嫌な奴と思われて、もはや人間関係崩壊。。。
ときにはうっかりミスで皆に迷惑かけることも。でも、これはうっかりミス、だから、謝罪は不要。次にどうするか、解決にフォーカスする。謝罪の代わりに、これが原因だと思います、とか、こうやって解決します、とか。
どうだろう、ま、ありえないかな。。。
とにかく、気軽に謝罪が言えることが、ウソなどの悪事を助長している、と思ったのです。絶対に謝れないなら、より丁寧に利他的に言動しようと思うような、ような。。。
感謝はすてき! 感謝の言葉は量産! 大いに「ありがとう」は伝える。でも、「謝罪」はなし。
ということで、失敗に対して処罰を与えるという脅しよりも「謝罪は受け入れない」が効果的かもカモ???
読んで頂きましてありがとうございます。
(v9_16)