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誰かの死/別れを「嘆き悲しむのは無益」(ブッダ)。うーん、ドウナンダロ?

先日、85歳ほどの大大大先輩の知り合いと話をした。同じ80、70歳台の仲良しが不慮の事故やら病気やらで先日・先月亡くなったことに言及され、でも、悲しまず、達観的で、自身の生活ペースを崩さず、淡々とし、そして「死は感謝」と表現される。感心するとともに、ビックリするとともに、その境地に自分は至っていないな、いずれ達するのかな、と思った。

で、ブッダ(釈迦)の本を読んでいたら、以下に出会ったのです。この大先輩と同じ思想のようにも感じた。

”この世における人々の命は、定まったすがたなく、どれだけ生きられるか解らない。~。生まれたものは、死をのがれる道がない。~。若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る”

”それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。”

”泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである”

”みずから自己をそこないながら、身は痩せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である”

”だから~人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ”

”(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する”

「ブッダのことば」(中村 元訳、岩波書店)

わかる。そうありたい、心の中では。でも、これらのフレーズを他者に伝えることはできない。こんな場面でこう主張する勇気も無い、と思った。。。

でも、ブッダはOKで、なぜボクはダメと自分で思うのだろうか? 文字通りブッダじゃないから???

ブッダの時代のインド?ネパール?(紀元前5~7あたり、2500年以上前)と比較して、当然に現代日本の方が社会は複雑であり、科学・技術が進歩し、快適で、健康で、安全・平和だ。もちろん当時は当時で、過去よりはそういう時代だ、と思っていたとは思いますが。。。

だから、ブッダの時代に比して、現代での死については単純に受入れられない。日本は、明らかに平和、且つ、自己責任よりもルール社会。そんな中での不慮・不測の死については、原因を誰か(個人や集団)のせいにしたくなり、そして出来てしまう。複雑な社会だから、個人に原因を帰すること無く、複雑なシステムの何かのせいにできる。自己責任以外に原因を求められる。もちろん実際に責任が個人に全く起因しない場合もありますが。。。

例えば、仮に天災が引き金であっても、自治体の適切な防災不足だった、とか、建築物の基準未満だったとか、注意喚起が遅れたとか。

一方で、ブッダの時代の多くの死は、悲しくても「しょうがない」と受け入れる類がほとんどと想像。さらには単純な世界だから、自業自得にできる。つまりその本人のせいでもあるよね、と言われて、周りも家族も確かにね、で納得できる。しかし、現代はそうではない。

だから、このようなブッダの言葉をその通りと納得し、自分はそう生きようと思うも、悲しむ他者を前にこれを伝えるには相当の勇気がいる。釈迦だから許される。ボクが言ったら、非常識で、思慮が浅く、空気が読めず、感受性が無く、やさしさ欠如、と批判されて終わる。

ブッダに限らず、過去の偉人達の言葉、それぞれに真理なのでしょう。人間自体は数千年では大きな進化は無いのでしょうから、説得力があります。でも、一方で、社会が違うからすんなり受け入れられない、とも言えます。

偉人や先輩の言葉に価値はあるのか? 価値があるとすれば、こんな偉人や大先輩の言葉を知り、自分の考えと比較し、あれこれ思うということなのかなと思う。この過程が学びであり、選択肢を持つことにもなる。ここに価値があるのかなと。偉人だからとすんなり受け入れる必要はない。仏陀さん、私はそうは思わないよ、それでイイかなと思ったのでした。

読んで頂きありがとうございます。
(最近出会った素敵な気づきフレーズv7_25)


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