「優しさ」は人が持つ本能。でも「上」になると「優しさ」が失われる不思議。
ひとは生まれながらに「やさしい」のかな、と思います。本能かと。
動物もやさしいです。同じグループの仲間では助け合います。他の種でもイレギュラーな環境では助けることがあります。オオカミに育てられた人間がいる事実もあるように。
だから、より知的に進化した人間が動物とは段違いのやさしい本能を持つこともありえます。
「親切の人類史」という本があるのですが、カバーにこんなことが書いてあります。
ひとは、歴史を経て「親切」を獲得していった。
「私はいつも、ふたつのことに驚嘆させられる(畏敬の念を抱く)。すなわち、わが上なる星空と、わが内なる道徳律」
とは、哲学者のイマヌエル・カントの言葉です。
「星空」というのは物理、宇宙、科学などのことで、すごいなぁーって驚くよ、という意味。それと、自分の心の道徳律、つまり、やさしさや利他にもびっくりしちゃうな、ってこと。
自分はなんていいやつだ!って。
でも、戦争してるじゃない!? あちこちで!? 戦争とまで行かなくても、酷いことがあちこちで起きているじゃない!? どこがやさしいの? どこが利他なの? とも思っちゃいます。
「一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は”数”によって神聖化させられる」
こちらはチャップリンの有名な台詞。はぁー、怖いですが、真実ですね。
でも、戦争などは、身近な大切なひとを守るための利他・やさしさが根底にあるのかな、と思います。それが情報操作で巧みに利用されている。一部の「上」の操作で。大切なひとを守るための利他・やさしさを煽られて、「悪」と勝手に設定された何かと戦う。
さらには、生活(=仕事・お金)のためという思いもプラスされる。上の指示に従う=仕事=お金=戦う。
自分ひとりではしないのに、組織の指示だとできる。怒りがこみ上げるように情報操作されているし、ま、お金も必要で。
十字軍だって、日本の戦国時代だって同じ(と勝手に思っています)。もうその頃には人類に「利他の心」「やさしさ」はあったけど、逆にそれがあるために、利用されて戦ってきた。で、相手がそうならこっちもそうなるデススパイラル。
だから「やさしさ」「利他」は儚く、移ろいやすく、不安定。皆が本能として持っているけど、弱っちい。
だから、「隣人を愛せ」や「善きサマリア人のたとえ」などが言われ続けている近代史。壊れやすい。
それと、なぜか、本当に不思議だが現代の「上」にいるひとは「戦い」好きだ。利他とかやさしさがなくなる。見事になくなる。上に行くほどなくなる。
どうして、こう、政治家も経営者も「上」は争いごとが好きなのだろう。全てを争いごととして捉える。争わなくても同じ結果になったと思われるのに、だから、ある意味、別に勝っているわけでもないのに自分は勝った勝ったと叫んでいる。情けない。。。
社交辞令しながら裏では喧嘩腰。まるで誰もが自分に対する捕食者のごとく、四方八方で戦闘モード。部下にもお客にも本心は戦闘態勢。競合はもちろん、株主も、誰に対しても。信頼しているふりして信頼していない。
強迫観念か、競争社会という言葉に洗脳されているのか、「上」は蹴落とされる対象と思い込んでいるのか、自ら蹴落とされるごとく思考・行動しているのがわかっていない。
何とも情けない。でも、仮面かな。ジキルがハイドになっちゃうのかな。本当はやさしいのかな。。。
でも、思うのだ。こんな情けない経営者や政治家のお陰で、反面教師になっている。ま、だからいいか、と。
裸の王様になっていることを知らずに。ま、知らないから本人は幸せなんだけど、でも、そのお陰で、相対的に「下」の人達は、ああならないように「利他」「やさしさ」を大切にしよ、と思える。
んん、いやいや、やっぱりダメだ。反面教師である必要性はないし、反面教師だと、「上」になったら「下」だったひとも、利他・やさしさを捨ててしまう。模範がないのはダメ。
「やさしい」リーダー/経営者がいて、あんなひとになりたいと思ってもらえる方がより良い世界だし、模範がやさしいから、「下」が「上」になっても利他を失わずに済む。
リーダーは、人類に本能として持っている、この弱々しい「やさしさ」「利他の心」を、不安定だからこそ大切にして、丁寧に常にそれを志して思考・行動し、そのすばらしさを他者に魅せないといけない!
なんて思うのです。
お読み頂きありがとうございます。
(v9_42)