社員の「孤独」はリーダーの怠慢から。リーダーの「孤独」は「誤解」から。
本を読んでいたら、以下の文章が気になった。
「キリスト教が即時に与えていたのは、孤独を終わらせる終止符、連帯する人びとの輪の中への所属、そして非常に具体的には、精神的で、経済的でさえある安全と安心だった。われわれが先入観なしに読みさえすれば、そもそも新約聖書に実態が露見している。そのテクストには一連の軌跡が長々と記されているが、それらは永遠の生よりも、地上におけるより良い生活を喚起する実利的ないし医学的な奇蹟なのである」
「ユダヤ教の揺るぎなさが示唆するのは、ホモ・サピエンスが究極的には、死よりも孤独を恐れるということである。」
とは、「我々はどこから来て、今どこにいるのか?(エマニュエル・トッド著、堀 茂樹訳、文芸春秋)」
死より孤独が嫌なの(だったの?)ですね。私たち。
確かに、日本でも名誉の名のもとに武士が切腹したり、君主への誓いを立てて死を覚悟で戦ったり、殉死したり。。。
不死という言葉を聞くと思い出す。
武士が現れたとされる平安時代(794年~1185年)に書かれたとされる「竹取物語」。
帝(天皇)はかぐや姫がおいていった”不死”の薬を、”富士”山で焼くよう指示します。で、指示された使者は、”士”をたくさん(豊”富”に)連れていったのです。
かぐや姫がいないなら死んだ方がましよ、ということ。ま、当時、死は怖いけど、不死なんてまったくもって不可能ってわかっていたから、怖いと思ってもしょうがないこと。どうしようもない。若くして死ぬケースも身近で多々。もしかしたら怖くなかったのかもしれません。
そんなだから、孤独しか議題には登らないですね。だから、孤独が嫌。
さて、現代は、死が名誉を生み出す価値観、なんて皆無。長生きが当たり前。そして、物理的な孤独が多くのひとで無くなりつつある。こんな現代では孤独より多くのひとは死が嫌です。孤独が解決されつつあるから、次は死が嫌になります。平安時代よりおそらく人生の楽しみは多い、から、死がより嫌になりましょう。
でも、だからこそ、現代で孤独があると、孤独を感じると、つらいです。自分だけが感が増します。結果、孤独によって死を選択することもあります。そうなると昔と変わらない。
会社などの組織の中で孤独を生みだすのは最低です。
個性を大切にし、仲間意識を醸成させ、支え合い、感謝しあう人間性を維持・向上させるのはリーダーの仕事。
TOPとしての自分が孤独だからと、部下が孤独であることを察知できないとか、放任するとか、野放しにするとかは、許容できません。
こんなリーダーはおそらくこう考えているのでしょう:
「組織のTOPである自分は孤独だ。ただTOPなのだからしょうがない。TOPは孤独なものだ。だって、すべての責任は最終的に自分だ。誰にも頼れない。自分が逃げたいと仮に思ったとしても、自分以外は自分を逃がしてくれない。自分以外は逃げられるのに。そして、誰も真の相談相手にはなってくれない。TOPであるのは自分だけ。だれがTOPの気持ちをわかりえるのだ? TOPである自分は孤独だ」。
これって、正しいように聞こえますね。
でも、正論かのようなこの考え方を、深く吟味することもせず当たり前と捉えていることが、リーダーの、リーダーシップの大いなる間違いの始まり、そう思います。社内に、TOPとそれ以外の壁、を勝手に自分が作っている。勝手に作り、勝手にストレスを感じ、イライラし、部下にあたる。あるいは、部下間の関係性から目をそらし、部下にも孤独感を生み出させている。
これは、正しくない。大いなる勘違い。
TOPだって、寂しい孤独には耐えられないひとりの人間なのです。自分から孤独だ!孤独だ!と、無意味に格好をつけて自分を苦しめる必要はないのです。
そうではなくて、会社の仲間を信じ、相談し、自分の気持ちなんてわからないなんて壁を勝手に作らず、心頼りにしたらいいのです。自分よりTOPとして上手くやれそうな、人間性・知性・経営能力にたけたひと、普通にいるものです。自分だけが優れているなんて大いなる誤解。部下に助けてもらえばいいのです。自分の未熟、曖昧さ、弱さを見せて、指示命令ではなくて、助けてとお願いするのです。そんな風にしたら蹴落とされるという危機感も間違っているかな、と思います。こんなTOPの方が愛され、そして、社内から孤独感を一掃できるかな、と思います。
一人になりたいことは多々あるけれど、孤独は嫌。死も、もちろん嫌。みな嫌。会社でこれらが起こさないようにするのはリーダーの仕事。
お読み頂きありがとうございます。
(v9_95)