子どもごっこと痴情のゆくえ
「淫乱」
美術室の扉の向こうから、その言葉だけがすっと頭に入り込んできた。軽やかで、嬉しげで、嗜虐性を含んだ響き。男の声なのに、少女のような甘みのある言い方。扉に嵌った正方形の窓は髪を下ろした小谷と、彼に向き合う後輩の姿をテレビみたく映し出している。
後輩は眠たげに瞼を伏せ、厚みのある唇を少し歪めた。やがて小谷の方を見つめ返すと、その顔は憂鬱な女のものになる。
──夏は少年少女を大人にする。大人はそんな戯れ言を言う。ところで関係のないことだが、小学生の頃、私の住む地域では「いちぬけぴっぴ」で遊びをやめることが出来た。
いちぬけぴっぴ。にーぬけぴっぴ。
八月中旬。美術室に扇風機が増えた。黒板に描かれた色相環が消えかかっている。私たちは机を向かい合わせにしてクロッキー帳を開き、絵を描くふりをする。
たまには男女一緒に活動しようよ、という一夏(いちか)の提案で、私の右隣に後輩のミコ、左隣にオタクの鈴木、左斜め向かいに一夏、一夏の右隣に明美、そして私の目の前に小谷が座ることになった。
小谷に淫乱、と呼ばれていたミコ──本名を波子という──は、椅子に半身をもたせながら、昨日描いたマーメイドの鱗を青のボールペンで塗り潰している。彼女の顔はこうして見ると小学生のようにあどけなく、肌は日焼けして、唇には色も付いていない。
「せんぱぁい」
マーメイドから目を離さず、ミコは私たちに聞いた。
「水族館、どうでした?」
一番遠くにいる明美が一夏を盗み見してから、「楽しかったよ。ミコちゃんも来られたら良かったのにねえ?」と私に聞く。
「そうだね。今度は皆で行けたらいいね」
私も一夏を見やる。一夏は二人の視線をかわして小谷のノートに落書きをしている。
「何それ?」
「ねこ」
「ふうん」
と言ったのはミコだった。明らかに不自然な反応だが、誰も追及はしなかった。
聞いてください先輩。
これがミコの口癖だった。大抵、その後に続くのは貝木というチビの同級生の話だ。ミコは貝木のことが「身の毛もよだつほど嫌い」で、彼の悪口を楽しそうに喋る。
それが、一週間前からぱったりとなくなってしまった。
一週間前の日常はどれだけ平和だったか。私は祈るように美術室を見渡した。教室の男女は潔癖で、耳年増も男子の前では何も言えず、大人に抑制されるのが当たり前の、明確で安全な日々。
それが、今ではきっちり結ばれた紐がするすると解けるように物事の線引きは曖昧になり、男も女も獣じみた側面をちらつかせ、幼い正しさから逃れようとする。私は真剣に遊んでいたのに、急に冷静になった仲間が誰かと抜け道を探して、ゲームは破綻していくのだ。
いちぬけぴっぴ。
昼食の時間になると、一夏は弁当箱を二つ取り出して、片方を小谷に差し出した。鈴木がニヤニヤしながら「お前ら……出来てんのかよ」と言う。
けれどそのからかいに便乗する者は誰もいなかった。この時の、ぞっとするほど大人びていた明美の表情に合わせて、私も何でも知っているような顔つきをする。
「先輩、それだけですか?」
私の昼食を見てミコが信じられない! と大袈裟な態度をとる。私や鈴木の注意を一夏から逸らすために行ったことかもしれない。つまり、私たちはこの後輩にある意味で見下されているのだ……。
淫乱。生きていて一度も言われたことのない言葉。ああ言われた彼女の、開き直ったような、邪悪な自信に満ちた顔。女の顔。恐ろしい顔。あの顔で、三日前の後輩は私にこう語った。
先輩、知ってますか。ディープキスってやばいんですよ。
不快感が喉元まで込み上げた。知ってますか、なんて後輩に言われて、何も言い返せなかった自分。衝撃の事実を次から次へと聞かされて、ただ青ざめるばかりだったこと。芋くさい貝木の顔。
何も知らないから馬鹿にされているんじゃない。馬鹿にされているから何も知ることが出来ないんだ。
目の前の二人に何があったのか、実は少しだけ知っている。私を除いた女子たちが教室の隅で話をしているのを、息を潜めて必死に聞いたからだ。私が聞き取れた言葉は三つ。
水族館の帰り──
カヨウ堂の二階のトイレで──
二人きり──
小谷は不格好な一夏の卵焼きを箸でつついている。側のノートには二匹の猫がおり、茶トラ猫が黒猫に「どろぼう猫!」と叫んで襲いかかっている。悪趣味な風刺画によく似たグロテスクな絵だ。私は黒猫の涼しげな表情と、卵焼きを頬張る小谷の顔とを交互に睨む。
一夏の手の脂が、体液が、一口ごとに彼の体内へ取り込まれる。信じられないほどおぞましいのに、彼の口元から目を離せない。一夏が訊ねる。「どう? お砂糖多すぎたかな?」
「いや。美味いよ」
「じゃあ、また作ってきてもいい?」
とん、と脛が柔い皮膚に押される。机の下で誰かの素足が私の脛に触れ、意図的に撫で続けている。私は硬直したまま、バレないように一人ずつ様子を見ていった。
両足を外へ投げ出しているミコ。きちんと靴を履いている鈴木。どんなに脚が長くてもこちらまで届くはずのない一夏と、明美。
「まじ? 助かるわー」
素足は少しずつ私の脛を上ってきたかと思えば、つま先でなぞるように足首の方へ降下する。私が微塵も動けないのを分かった上で、その足は私の右脚を何度も往復した。
小谷は一夏へ朗らかに笑いかけながら、机に腕を乗せている。男性にしては華奢で、脂肪の少ない、青い血管が張り巡らされた真っ白な腕と手首。机の下で私を弄ぶのは、これと同じ格好をした白く美しい足だというのか。本当に? 今すぐにでも下を覗きたいけれど、そうしたら彼の気まぐれはきっと打ち切られてしまう。
少し湿り気を帯びた生あたたかい足裏が、紺のハイソックスを履いた脛を強く押したり、くすぐる程度にまで離れたりする。その間も小谷は一夏と他愛ない話をしている。何も気づかないどろぼう猫。素足の動きに合わせて、冷酷ですらりとした空想上の足が、私のハイソックスを、皮膚を、神経を越えて一番罪深い部分を刺激する。私はベルベットの絨毯になり、容赦なく白く骨ばった足を擦り付けられる。抵抗も出来ず、彼の思うままに……。
ついに足は絨毯からはみ出し、私の膝に直接乗り上げた。汗ばんだ足指の先が、スカートを徐々に太ももの方へずらして、冗談でしょ、と引き下がろうとした両膝の間へ簡単に滑り込む。椅子の脚がぎいっと音を立てて床を擦る。ミコが私の異変に気づいてこちらを向いた。私は勢いよく立ち上がり、
「……水、飲んでくる」
顔を覆って、美術室を飛び出した。
水飲み場からはくすんだ町がよく見える。海も山もなく、曇りがちで、乾いた泥のこびりつくアスファルトと空のグレーが、天も地もなく広がっているだけの陰鬱な町。同じく土色の肌をした中学生たち。グラウンドの変声期。ひっきりなしに響くトランペットと弦楽器の音。流行も価値観も都会と比べて変わるのが遅く、年度末の冊子には一年遅れの流行語が書かれている。ひび割れた中学校校舎。
水族館で見る小谷の肌は、まるでガラスのように深く綺麗な色をしていた。彼が好きだという水中のイルカよりも白く透けて見えた。
けれど。ショッピングセンター二階のトイレ。
貝木のことは一度か二度見たことがある。ミコの言う通りチビで、肌は汚れていて、サッカー選手に似せて失敗した刈り上げが哀れなまでに田舎臭い、よくいる少年だった。
ミコの生意気で艶かしい笑顔。
私は窓辺でしゃがみ込み、皆が戻らない時間を過ごしている中、自分だけが宙に浮いて停滞しているところを想像をした。ずっと、子供のルールを破った「ませがき」は罰を受けるべき存在だと思っていた。大人の言う「子供のくせに」という言葉に救いを得ていた。
けれど、子供と大人の境目がこんなに曖昧なら、「子供のくせに」に守られていた人間は一瞬で「大人のくせに」と裏切られてしまう。
「部長、生きてる?」
顔を上げると、思ったよりも近くに小谷が立っていた。ジャージの裾を捲り上げ、素足のまま大きなスニーカーを踵履きしている。
「熱中症かと思ったわ。紛らわしいから、そんなとこで丸まってんなよ」
青いジャージのせいだろうか、その脚は想像よりも青みがかっていて、産毛と呼べるくらい細い毛が脛の表面に生えていた。そしてくるぶしから下だけが薄桃色に色づいて、浮き上がった血管がスニーカーに隠れている足の甲へと続くようだ。水飲み場へ一歩踏み出した時に見える足の裏……これが私を苦しめた、柔らかく弾力のある皮膚の正体か。
「何がしたいの」
私はよろけながら立ち上がり、流しに手をつく小谷に聞いた。
「どいつもこいつも、何がしたいの? 好きな人を嫌いって言ってみたり、犯した過ちを周りに言いふらしたり、淫乱なんて呼ばれてんのに喜んだり。おかしいよ。みんな頭おかしいんじゃないの。小谷は……本気なの?」
蛇口を逆さまにして、小谷はしばらく水を出しっぱなしにした。銀色の球が形を変えてどくどくと流れ出し、滴り落ちる。長く伸びた髪を耳にかけ、こちら側に顔を少し傾けて、彼はその溢れる球を唇で拾う。
「こ、……怖くない、の?」
蛇口から出る水のほとんどが下へ落ちていくように見えた。数秒してから、小谷は口に含めた水を飲み下さず、唇をすぼめて──流しに全て吐き出したのだった。
もう一度、水を溜める。再び、「う」でも「え」でもない形にした唇から水を吐き出す。蛇口を元に戻すと、手の甲で口元を拭い、彼はいつもより数段低い声でようやく私に返答した。
「怖くなんかねーし」
薄く笑っていた。濡れた唇が吸血鬼のように赤く、笑顔をより不気味にさせている。私は物語の悪役に惚れ惚れする気持ちで相手を見上げる。
「なに、部長は怖いの? ま、部長はジュンジョーだからな。ああいうのはまだ早いっしょ」
「……馬鹿にしないでよ」
握り拳をつくるが、こんなものはほとんど彼に打ち負かされるための抵抗だ。
「私は知る機会がなかったから知らないだけ。汚れようと思えばいくらでも……誰よりも知ることが出来るの。でもそんなことはしない。私、あんなふざけた真似はしないから」
フン、と鼻で嗤う小谷。可哀想な動物でも見るような視線に、自分が言葉もなしに負けられる人間であることを思い知らされる。けれど小谷は若干高揚していた。悩ましげな目、下がった眉、それらとは不相応に歪められた口の端。間違いなく、これこそが嗜虐的な人間の本当の笑みだ。
「じゃ、部長には色んなこと教えてやれんね?」
そうして彼は私の方へゆっくり歩を進め、私は、事実を受け入れる間もなく次々と「色んなこと」を彼から教え込まれた。湿った彼の髪の毛から特別な匂いがする。男が使うシャンプーの匂い、だ。この時の私はみっともなく信じきってしまった。この安っぽいミント系の香りが、きっと、知ってはいけない物事の始まりだったのだと。
部長の可愛い後輩さあ、あれ壊れちったよ。
貝木ってサッカー部でも有名な奴でさあ。
みんなで共有し合ってんの。
まあ良いんじゃね? だって本人喜んでんだもん。だからインランって言ってやったんだ。
部長、あん時すげー顔して見てたけどさあ。お前も言われたかったりした?
言ってやんねーよ。だってお前ガキだもん。
子供は大人と違ってなにやっても良いんだよ。子供だから。
……そ。なにやっても良いんだよ。だからお前はそのまんまでいたら?
だって怖いんだろ? 何もかもが。いつまでもあいつらを指咥えて見てろよ。
俺は怖くねえよ。あんなん、別に、怖くねーよ。
「……じゃあ、なんでわざわざ私の前でうがいなんてしたの?」
そう言うと、小谷は心から愉快そうに肩を揺らした。
小学生は意地悪なので、遊びを抜ける時もルールを設ける。
いちぬけぴっぴ。にーぬけぴっぴ。
さーんはなかなかぬけられない。