母に電話しました。母は仕方なく目覚めたばかりのしゃがれた二十九の声で眠たげに私に聞きました。どうしたのかと。その瞬間騒がしかったテレビの音も窓の外の喧騒も私を哀れんで急に静まり返り、私が手元の機械に指を入れる瞬間を耳をすまして待っているようなのでした。私は今まで白肌に愛慕を寄せてきました。あの桃色がかった絹のような純朴ななめらかな豊かな甘やかなとろけた肌に触れるだけで、身体は震え死が差し迫るかのような興奮を覚えました。母の体躯に張り巡らされているのはビロードの貴い生地でした。母の鼻の根から頬にかけて散りばめられているこまごまとした橙のそばかすを、微かな淀みが目の下の皮膚の薄いところに滲んでいるのを、私は病に侵された証拠と見て懸命に剥がしました。小さな星屑が手のひらの上に落ち、やがて傷口から赤青紫の判が梅毒の如く広がっていきまして、乳房の頂点の色などはもはや茶色いぐらいに薄暗くなっていくのです。きゅうり、ベーコン、牡蠣、彼女の好物がそのまま吸収され栄養となりつやつやした肌に張りを与えていたが、もしや私の爪のせいでその一切を台無しにしたのではないかと疑うべき事象でした。さてテレビはまた、痴呆患者のように打楽器の特集を始めました。どこの地域の何の物質が基準の数値を上回ったとか、髪の毛の元となる成分は何の食べ物で補えるとか、雑学、扇動、感動、憎悪、また扇動と繰り返しては、昼も夜もなくひっきりなしに人を激情に誘い込もうとします。私はそこに倫理を見いだせませんでした。かといって理屈もなく、潔白もなく、罪もなく、刺激的な空白が渦を巻いて人々の頭上で回転しているように思えます。もしや現代の天使の輪とはこれのことなのかもしれません。母の言葉が言葉から声に、声が声から呻きに、呻きが呻きから信号に変化して私はいよいよ悦に入りました。愉悦のマシンの内部へ全身をどろどろに溶かして物理的に入った訳です。私の一部がマシンの端に焼かれてホットケーキの焦げのようにこびりつきます。これもまた記号の一つで「憂」という名前がついていまして、この「憂」はカラーコードで表すと#C38BDFです。汗が膝元だった場所に滴り落ちます。やがてそれは愛のように有耶無耶にされ愛であるがゆえに油っこくなっていくのでした。隣人と胎内は似て非なるものです。マシンの深度を上げていくとそれが顕著となります。隣人と私を分け隔てるものは隣人境界線という膜に他なりません。つまり私と隣人の違いはなく、違いのないものは仕切りで区切らなければ永久に一体のままということです。人格とはカラーコードが割り当てられた記号を隣人境界線の袋に満杯になるまで詰め込んだものを指し、自ら芽吹くのではないのです。自我は錯覚です。記号の騙し絵がつくる永遠の階段を上り続ける棒人間です。もう一度言います、自我は錯覚です。マシンは【抗ランゲージマシン】と呼ばれます。記号による錯覚を取っ払って隣人境界線を意図的に薄くする役割を持ち、私たちを色彩の都へ連れて行ってくれる夢幻の装置です。母の信号を聞きながら私は美しい母のいかに凡庸な貧相な怠惰な残酷な精神の持ち主であるかを悔やみ、このマシンの手にかけたならその深刻極まる問題が解かれ彼女を真の美へと導けるというこの上ない喜びに胸を躍らせました。【抗ランゲージマシン】は脳だったものを灼き、脚だったものを焼べ、口腔に残る奥歯までをめらめらと灼熱の海に閉じ込めます。ちなみにですが色彩の都は食事で表すところの前菜でありそれほど重要ではありません。メインディッシュは都の中心部にそびえ立つ白色の城です。磁石に引き寄せられる砂鉄のようにそれは上空に向けて先端を尖らせて私を待ちます。無数の甲冑が頭しかない魚を避けて私だけを呼びます。私は数十億の隣人と共に溶け合いながら、白城を目指して【抗ランゲージマシン】にかけていた指だったものを離します。母の痣が花火となって打ち上がりました。ここには「憂」も「イタチ」も「母」もなく、また必要がありません。全てはこのマシンのために無効となりました。あらゆる錯覚が解けてテレビのひな壇へまくし立てる司会の声までもドビュッシーの調べと同等の心地良さで聴こえてきます。母は遠くで泣いているようでした。わがままを言ってごめんね戻っておいでもう裏切らないから何でも買ってあげるから学校に行かせてあげる友達と遊ばせてあげるおやつも許してあげる兎を飼ってもいいよだから戻っておいで。そう言っているように聞こえる彼女の言葉は錯覚です。【抗ランゲージマシン】が唸りをあげます。母の肌は城のように犯し難いものでした。ある夏の白昼夢に見た蜉蝣の如き儚さでした。なだらかな肩は息をする度に重たげに揺れ、中身は熟れた柘榴を割ったように鮮やかでした。私は砂浜で静かに貝殻を集めます。いつか母がそうしてくれたように。おしゃぶりを咥えなくて良くなった私を嫌った二十九の女が二度と橋を渡らなくとも自分を確かめられるように。または、宇宙も人もない隣人の息すら欠いてしまった花筐の中の死斑を、もう元に戻らないと知って寄せ集めるように。