女ニートが死ぬまでの話
紅子は小学校に上がるまで、いや、いい歳になっても度々「ベビ子ちゃん」と呼ばれてきた。両親にとって、高齢出産を経てようやく迎えた一人の愛娘は天使のように尊く、永遠に続く幸せの象徴でもあった。
足を前に出せばあんよが上手、服を着れば花のよう、笑えば世界一可愛い子。駄々をこねても、母は笑って「まだまだベビ子ちゃんねえ」と小さい身体を抱き上げる。好きなものはいくらでも与え、嫌いなものは遠ざけた。両親が作った紅子の世界は完璧だ。
紅子はとても浮いた子供だった。ひとりだけいつまでも計算ができず、漢字の書き取りもできず、他の子供と違う言葉遣いで喋るので、よく仲間はずれにされた。紅子がそのことを両親に話す度、母には「こんなに立派なお洋服を着ているからよ」、父には「お前はまちがっていないよ」と慰めてもらえるので、実際よりも大げさに語った。時には同級生がされたことでさえ自分の体験にすり替えて、作り話をした。
中学に上がってから、クラスメイトのエリと仲が良くなった。というよりは、仲が良いことにされたと言うのが正しい。エリは饒舌でかなりの早口で活発な女だが、紅子と同じ変わり者なので、教室内で同類とされただけだった。やがてエリの承認欲求とも呼ぶべき厄介な性質は、紅子の人生に暗い陰を落とす。
エリはまず、紅子の下駄箱にラブレターを仕込んだ。それも執拗に、三回くらい文通させることで誰かの悪戯ではないと信じ込ませ、最後の手紙で校庭に来るよう促した。紅子が向かった校庭には、隣のクラスの男子が立っている。もう察しがつくだろう、嘘の告白だ。大して上手くない演技がかえって本気で緊張しているように見え、紅子は承諾した。同時に、男子は校舎の二階に向けてガッツポーズを決める。
ふたつ分の教室から沸き起こる歓声、嘲笑、冷笑。窓辺にいたエリが身を乗り出して叫ぶ。
「ねえ今どんな気持ちー!」
エリは顔を真っ赤にして誰よりも興奮していた。自分が企てた悪戯に六十弱もの人間が注目している、その悦楽が彼女にとってどれほどのものだったか、はかり知ることはできない。
紅子は九か月で高校を中退した。理由は、特になかった。書類に校風が合わないと書いた彼女には、自分の通う平凡な高校に校風などがあるのかさえ分かっていない。ただなんとなく朝起きるのはだるいし、友達はひとりもいないし、授業は分からなくてつまらないので、やめちゃえ、と思ったのだ。
初めて高校をやめたいと言った時、両親は猛反対した。今どき高校も行かないで就職はできないのよ、今後のことは考えてるの。その言葉が思春期である彼女の反抗心に火をつけた。
何もない紅子には、大人の翳す常識に抵抗する若者、というドラマ的な図が輝いて見え、自分がまさにその苦境に立たされていると錯覚してしまったのだ。成し遂げたいことも、貫くべき意思も、まして敵も最初からない状態で。
「ママには何も分かってない」
「私は社会の歯車にはならないよ」
「周りの奴らこそ、世間に飼い慣らされて可哀想!」
さらに蝶よ花よで育ったせいでどうしようもなく根を張ったわがままな性格が災いし、とうとう両親は白旗を挙げた。紅子はそれから昼も夜も寝て、起きればゲーム、飽きたら漫画、そうこうしているうちにまた夢の中、を繰り返していたが、一年を過ぎたところで精神が病み始めた。
少なくともその頃は、病んだ方が楽という奇妙な感覚に陥っていた。怠惰を極めて食っちゃ寝しているだけの人間より、深刻な理由から何もできずにいる人間の方が、何か正当性があるように思える。紅子はこの頃から血眼で理由を探した。自分が堕落している理由、何もしようとしない理由、日々が虚しい理由。
ここに来て彼女は理由づけにうってつけの存在を思い出す。エリだ。仲間はずれにされるなどの小さな出来事を除けば、紅子が経験した唯一にして最大の屈辱。そうだ、あれから私の人生は狂った。学校をやめたのも、高校で友達ができなかったのも、エリが私を人間不信にしたから。
彼女の被害者意識は止まらない。それは学校に、社会に、家族にまで及んだ。
食事を持ってくる母をきっと睨みつけ、壁を殴り、奇声まで発する。全世界を敵にし、たわごとのように「私がこうなったのは……」を自問自答する日々には、優しい苦痛があった。ネットで同じニートや不登校の人と傷を舐め合い、綺麗事の名言を否定する。それが紅子の小さな正義だ。
翌年、自己正当化のため自ら病んでいる所も伺えた紅子は、今まで利用してきた被害者意識に振り回されるようになった。簡単な理由づけと仮想敵を恨むことで満足していた自分ではなくなったのだ。
どれだけエリや学校や社会に敵意を向けても、自分は相手に認識すらされていないことに気がついた。私は、いないものと同じ。そう思えば思うほど、相手を許せない気持ちがいっそう強くなった。
これは優しい苦痛などと違い、例えば衣服と皮膚と爪を少しずつ剥がされ塩を塗りこまれるような非人道的行為が街中で行われていても、誰一人目を留めず過ぎていく、それが正常な世の中なのですと言われることにも似た奇怪さをはらんでいる。
己の世界と他者の世界がちぐはぐで、常識も言葉も通じない。傷に塩を塗られる激痛を、誰にも理解してもらえない。もしこの拷問が終わっても、誰かに痛みを伝えることすらできない。
紅子は目も眩む無間地獄を彷徨い、時間の感覚すら忘れ、病的な怒りに没頭した。今まで感じたものとは別種の、心臓を鷲掴みにされる強い孤独感に苛まれた。自分を甘やかしてきた両親の行動すら計画的な犯行に思え、誰とも会話ができず、身体はやせ細っていった。
そんな状態が二、三年と続いた先で、紅子の父は倒れた。救急車の中で揺られる父を見た時、紅子は初めて自分のちぐはぐな世界を俯瞰して見ることができた。病院で書類に父の情報を書こうとしても、昭和の昭の字が出てこない。久しぶりに書いた文字はぐちゃぐちゃで、しばらく断絶してきた外側からの焦りが生じる。
ストレッチャーで運ばれた父が嘔吐する度に手袋をはめて冷静に処理する医療従事者が、このロボットじみた手の持ち主が、世間で言う普通の人である、という事実が怖い。
父がいない夜の家はいつもより広く、廃墟のような静けさだった。紅子の母は病院で言われた通りに夫の下着を袋に詰め、明日にでも持っていくための準備をする。
「どうしようねえ」
初老の人間特有の達観した雰囲気を保ちながら、その声は若干震えていた。何年もの間きちんと見ていなかった母の顔は自分よりも痩せこけ、目元まで暗く窪んでいる。こんな姿に誰がしたんだ、と自分を責め立てる声が、紅子の頭の中にだけ反響する。紅子は叫んでいた。自分の予想よりも低くしゃがれた声だった。
「どうしようもねえよ」
目をまん丸にして縮こまる母と退廃したリビングから逃げるように、紅子はすぐ自分の部屋へ走った。階段を上っただけなのに、吐き気を催すほど胸が苦しい。
幸運にも父は回復し、一週間で退院した。休んだ分は取り返さなきゃな、と帰りのタクシーで元気そうに笑ったが、身体はかさかさに乾き、肌はまだ青白かった。紅子はあれから自分の中で溜まっていた毒気が少しずつ抜けていくのを感じた。家庭で一瞬失われかけたものが元に戻っただけ、ではなかったようだ。
食事は三人でするようになった。少しずつ世間の話をするようになった。たまに、一緒に買い物をするようにもなった。紅子のちぐはぐだった世界が、ゆっくりと噛み合おうとしている。
二十歳になった日、紅子は母に振袖のパンフレットを渡された。成人式に参加しないのなら、前撮り写真を撮ってもらおうか。近所の写真屋を予約し、美容室で髪を整え、親子でレンタルする振袖を選んだ。主流の花柄から奇抜なものまで、母の昔話を交えて悩む時間が楽しかった。
前撮りの当日、四十代ぐらいの人の良さそうなおばさんが紅子のメイクと着付けを担当することになった。ファンデーションを紅子の顔に塗りながら、学生さん? お仕事はされているんですか? と、何気ない口調で聞く。紅子は目線を下げて答える。「いえ、何もしてないです」
メイクは普段からします? おばさんは気にせず問いを変える。紅子がいいえとだけ返事をすると、快活な笑みを浮かべ、
「これからメイクの楽しみを知ることができますね」
鏡越しに紅子と目を合わせた。紅子はすっかり化粧をした、普通の女性になっていた。
後日送られてきた写真には、まるで自分とは別人の誰かが写っていた。父も母も良い写真だと喜び、親戚にコピーをくれてやり、リビングの中で一番見晴らしの良い場所に写真を飾った。控えめで繊細な柄の振袖は、日本人らしい顔の紅子によく似合っている。撮影時は手が震えるほど緊張したのに、写真の中の紅子は艶やかに微笑んでいた。
携帯を置き、胸を撫で下ろす。リビングへ向かい、食事の準備をする母に紅子は「明日、面接」と告げる。「ほんとう」母の声はいたって落ち着いていたが、その表情は穏やかだ。父が新聞を読みながら遅れて「頑張りなさい」とだけ言う。
あらかじめ作っておいた面接用のメモを反芻し、実際に発声して練習を繰り返す。だいぶ遅れたが、紅子はやっとスタートラインに立った。覚えたての化粧も、そこそこ見られるようになった。努力が実を結び、紅子はアルバイトの面接に合格した。
「パパ、ネクタイってどう結ぶの?」
初出勤の前日、紅子は父にネクタイの結び方を聞いた。アルバイト先で必要な知識ではないものの、彼女にとってネクタイが結べるというのは、社会人として当たり前のことと思えたのだ。
父は側にあった深緑色のネクタイを手に取り、娘へ丁寧に結び方を教える。そしてようやく自力で結べるようになった紅子に、褒美としてそのネクタイを与えた。紅子はこれが父にとってお気に入りの高価なものだと知っている。このネクタイを首に巻いた時の自分は、どんな姿をしているのだろう。それはまだ、彼女には想像できない。
次の日、紅子は夜遅くに帰ってきた。母が何かを言おうとする。何をしていたの、遅くまで仕事があったの、誰かと遊んできたの……。母は全ての言葉を飲み込み、紅子の食事を用意した。娘がどうしても自分と目を合わせようとしないからだ。
紅子は家族の気を遣った控えめな質問の数々に、ただ頷くだけだった。幽霊のように足音もなく自室へ帰る。部屋の中は濃紺一色で、引きこもっていた時に比べると幾分か小さく感じられた。
仕事内容を教えてくれた人は、悪い人ではなかった。他の従業員も同様に良くも悪くも人に対して無関心な性格で、悪意を持って紅子に接したりはしない。
自分はずっと冷静だった、と、紅子自身は評価しているが、心の中で何かを思う余裕がないほど頭が真っ白になっていたのを、静けさと錯覚しただけだ。仕事を教えられている最中、紅子から紅子は切り離され、糸の切れた人形を必死に操ろうという気持ちでいっぱいだった。
こう言われたらこう返す、こうなったらこのボタンを押す。一つ一つの指令には理由があるはずなのだが、分からない。自分が教わる内容にある根本となるものが見えてこない。相手の話す単語はバラバラに解け、意味を考えているうちに次のことを言われる。紅子は昔から計算が苦手だ。一たす一を問われた時、なぜ一が存在するのかを考えてしまうからだ。
帰り道、紅子は道行く人々の顔を一人ひとり観察した。どれもすぐに忘れてしまうほど平凡な顔だ。この平凡な人たちが普段行っている仕事というものが、いかに不可解なものであるか。
彼女は公園で遊ぶ子供を発見し、この子らも例外なく将来はあの不可解な場に立たされるのだ、そう思うと、自分だけがはるか遠い場所で生まれ育った宇宙人か何かであるような感覚を覚えた。が、紅子の生まれ育ちは平凡の範囲を出ない。普通の人と比べて能力が劣っているただの人間だ。
情けなさで家に帰ることもできず、紅子は夜まで公園のベンチで放心した。
彼女は考えることが得意で、誰よりも多くの物事を考えられると思い込んでいた。だが実際は思考に整合性がないだけで、むしろ必要な考え方については昔から放棄する癖がある。二十年余りの人生で、初めてそれを自覚した日だった。
最終的に、教えてくれた人は私の不出来さに顔を引き攣らせていたような気がする。周りもきっとそうだ。いっそ怒鳴ってくれればいいのに、理性的だから怒りを堪える。明後日もそんな日の延長に違いない。その次も、次も次の出勤日も……。
紅子のマイナス思考は止まらず、泣くことすら許さない強烈な絶望感が渦巻いた。頑張らなきゃ。せっかく踏み出した第一歩をここで台無しにする訳にはいかない。頑張らなきゃ、頑張らなきゃ。
次の出勤日、紅子はアルバイト先に電話をかけていた。何を言ったかは憶えていない。ただ「ごめんなさい」を言う度に現実から現実味が失われていくのが、不思議に感じられた。
「きっと次は上手くいくわよ」
両親は、酷い扱いを受けた訳でもなく、己の弱さを理由に初日でアルバイトをやめた娘を責めはしなかった。父も母も常に紅子の味方で、彼女を強く叱りつけた経験ひとつない。再び塞ぎ込みがちになった紅子を、不安げに見守っているだけだ。
紅子はその後、毎日一時間以上も求人情報をチェックしたが、一度たりとも応募の電話をかけることはなかった。
コンビニ、飲食店、ガソリンスタンド、工場、配達、コールセンター。どの職場で働く紅子も、紅子の頭の中では過ちを犯し続ける。人の言葉がバラバラになり、ため息をつかれ、呆れられる。謝罪と共にやめるという内容の電話をする。
紅子はストレスで髪の毛が抜けるほど己の空想に苦しめられ、一年が経った頃、ついに一切の思考を放棄した。
考えることをやめてから、急に身体が楽になった。ご飯は美味しくて、窓から見る空は綺麗で、眠りに落ちる時は心地が良い。全てのことがどうでもよくなった。エリがネット上で過激な配信をしていることを知っても、そうなんだ、としか思わないほどに。憎い相手も、愛しいものも何もない。自由である幸せを噛み締めた。
紅子の性格は明るくなった。子犬のように何も考えず与えられた夕飯を食べ、ゲームなどで遊び、寝る。こんな生活に対してかつてあった嫌悪はどこかへ消えた。全ての苦しみから解放されるために、自ら人間らしさを捨ててしまった。パパもママも紅子の将来について話すことはぱったりとしなくなり、伸し掛る問題から目を背け、娘の破綻している言葉に曖昧な笑みを返した。
紅子の毎日は楽しかった。気まぐれに育てたかいわれ大根が味噌汁に入れば、三日はその話をした。日々の出来事がないので、昔の話を何度も繰り返すことになる。辛かった過去を背負うのは既に自分とは別の誰かになっており、エリに騙された話も難なくぺらぺらと喋ることができた。小さい頃についた嘘さえ今では本当のことと区別がつかず、とにかく何でも快活に話した。
ママは紅子が小さい頃の話をすると、「ベビ子ちゃんだったからねえ」と嬉しそうにする。紅子はママの喜ぶ顔がもっと見たくて、ベビ子ちゃんの話をたくさんした。ベビ子ちゃんが好きだった食べ物は今では苦手なのに、ママの笑顔のために美味しいと言った。
時間はゆっくりと流れ、日々は数取器でカウントするように無意義に過ぎた。紅子にはもうこの生活に対して違和感も焦りも感じ取ることができない。今日のご飯が美味しい幸せ。寝る幸せ。彼女を支配するのはそれだけだ。
そんな日常が何年続いただろう。紅子はその日、夕方まで昼寝をしていた。眠りから覚め、時計を見てもうすぐ晩御飯だなあと伸びをし、部屋を出る。やけに静かだった。キッチンでママが料理する音が聞こえてこない。階段を下り、リビングを覗いた先には二つの死体があった。パパとママが、首や胸から血を流して倒れていた。
「ママー?」紅子は首を傾げる。ママは返事をしない。パパも服を乱したまま動かない。近くに、ママお気に入りの包丁が落ちている。テーブルには食事の代わりに、『紅子 ごめんね』と書かれた紙が置いてあった。
日が急に傾いた。紅子の空っぽだった頭にやっと正しい情報が入り、彼女がいた生暖かい世界は、卵の殻を割るように壊れた。廊下まで走り受話器を取る。警察の番号って何だっけ。五秒ほど考え、やっと一、一、零を押した。
間もなく男の声が聞こえてきたが、何を言っているか分からない。紅子は数回、あ、あ、と奇声にも似た声を発し、状況をもう一度見ようとリビングへ目をやった。一番見晴らしの良い場所で微笑む振袖姿の自分が、赤黒い飛沫に濡れている。
「……すみません」
それだけ言って通話を切り、彼女はリビングから逃げた。自室が眩しい。夕日を遮断するため、ファンシーな花柄のカーテンを勢いよく閉める。
絶縁していた数年分の現実が今、一度に襲いかかってきた。紅子にとって近頃の両親は、食事を出してくれて、話に相槌をうち笑ってくれる優しい機械に過ぎなかった。
二人が社会復帰できない娘への悲しみやそんな状態にしてしまった責任、不安、押し潰されそうな感情に悩まされている中、紅子はいつまでもまやかしの幸せに浸っていた。もしかすると両親は、何年も前から笑ってすらいなかったかもしれない。
何もかも手遅れになって目を覚ました紅子は、ようやく考え始める。久しぶりに使う頭がずきずき痛み、喉が焼けそうになる。明日、という言葉が浮かんだ。
私の明日はどうなるの? 明日から私は、どうすればいいの?
今まで両親によって与えられ、自動的に迎えるものだった明日のことなど、考えたこともない。分からない。不安だ。苦痛だ。紅子は苦痛を解消せず逃げてきたので、逃げることしか浮かばない。だが彼女に逃げる場所などあるものか。仮にあったとしても、何もしてこなかった彼女に手段が分かるはずもない。
紅子は引き出しからあるものを引っ張り出す。初バイトの前日に父がくれた、深緑色のネクタイ。しっかりした質の良い生地。これをドアノブにかけて固く結んだ。ドアへ背を向け、輪っかに首を通す。
どうしてこうなったのだろう。
計算も漢字の書き取りもできなかったからだろうか。変わり者で、エリに悪戯されたからだろうか。高校を九か月でやめたからだろうか。被害者意識が強かったからだろうか。無能だったからだろうか。無考えだったからだろうか。弱かったからだろうか。いつまでもベビ子ちゃんだったからだろうか。
遠ざかっていく意識の中、紅子は両親にまた会いたいと思った。産声をあげ、父と母に初めて顔を見せた時と同じ形で。幸せだったはずの二人に、紅子は、ごめんなさい、としか言えなかった。
もし両親が紅子を甘やかさず、適切な教育をしていたら彼女は死ななかったかもしれない。
だが、紅子を殺したのは両親ではない。
もしエリがまともな人間で、紅子を陥れなければ紅子は死ななかったかもしれない。
だが、紅子を殺したのはエリではない。
もし社会がもう少し紅子のように生きづらい人に優しければ、紅子は死ななかったかもしれない。
だが、紅子を殺したのは社会ではない。
紅子を殺したのは紅子だ。
あの世というものがあるのなら、紅子は幼少期の姿で「まだまだベビ子ちゃんねえ」と母に抱き上げられながら、永遠に続く楽しい時間を過ごしているだろうか。それが三人家族の幸せか。彼女の人生とは一体何だったのだろう。