2011年 精通
※震災に関連した描写を少々含みます。
その日は僕が住んでいる地域も結構揺れた。上下にガタガタ揺れるのではなく、教室全体が巨大な船になったような、不気味な揺れ方だった。メダカの水槽がたぷ、たぷと左右に水を零す。
「こういう時どうするの!」
担任の声でクラスメイトが一人、二人と机の下に隠れ始める。目眩にも似た揺れはしばらく続く。机のフックに下がる給食袋が静止したのを見て、揺れているのは自分の方だと気がついた。
スピーカーから教師の落ち着いた、というよりは落ち着かせた声がして、今日のクラブと委員会活動は中止、全校児童は速やかに下校すること、と連絡があった。中断していた帰りの会を担任が仕切り、机の上のランドセルを背負って僕たちは学校を後にした。
帰り道にはまだまだ雪が積もっている。道路脇の雪山が汚れてきたので、もうすぐ春が来るのだと分かる。途中、屋根の上で雪下ろしをする不登校のクラスメイトと会った。「卒業式、来るの?」と聞いたところ、彼は「考え中」とだけ答えて目を逸らしたので、来ないんだな、と思った。
家に帰ったら、テレビ画面が真っ青だった。
月曜日、教室はどことなくそわそわしていた。僕は単純にこの三日で知らされてきた異常事態の影響だと推測し、同時にクラスメイトがブログのチャット機能で不謹慎な発言をする人を片端から叩いていたことなどを思い出す。担任が朝の会を開いて、最後にクラスが落ち着かない真の理由を述べた。
「恩田のお父さんが亡くなりました」
思わず斜め後ろを向く。恩田の席には誰もいない。続けて担任が説明するところによれば、恩田の父は十二日、交通事故で亡くなったという。急なことだから、恩田が学校に来ても自分たちなりに気を遣ってあげて欲しい。そんな感じのことを言った。
恩田はあまり親しくないクラスの女子だ。大人しくて女の子らしい性格だから、低学年の時からそれなりにモテていた。モテるというか、低学年時代には必ずいる、何人も好きな人がいる奴の言う二番目ぐらいの子に挙げられる女子だった。係決めの時にはたまに泣いている。エーケービーとアラシが好き。それぐらいのことしか分からない。
僕はまあ、小学校卒業前に父を亡くした恩田はかわいそうだが、かわいそう以外の感情は特に抱かなかった。友達でもないので、抱きようがなかったのだ。
二日後に恩田は姿を現した。教室が一瞬だけシン、と静まり、それがかえって良くないと察した奴が普通に振る舞い始める。恩田の元から白い肌はさらに色味を失くして、灰色っぽくなっていた。係決めで泣くぐらいだからどうなるのかと思いきや、彼女は日頃らしく笑って女子の輪に溶け込んでいった。
言動や行動を考えなくてはならないのは断然周りの方だ。恩田の友達はいつも通り中休みには遊びに誘い、ふざけていた。鉛筆を削りながら僕は自然と恩田の言葉に耳を澄ましてしまう。教室の後ろの方で何を思ったか、恩田が自ら数日前の話をしだした。
「そういえばウチ、お葬式でね、セーラー服着たよ」
友達は遅れて気が気でない感じの返事をする。するともう一人の友達がセーラー服という言葉に好奇心を示した。恩田は、僕を含め大多数が入学する中学とは別の学校へ行く。僕たちの進学先は指定服がブレザーだが、恩田の学校は学ランとセーラー服らしい。
「それで、校則違反になるけどスカート折ったの。三回!」
スカート、校則違反。その話題になると何故か女子の食いつきは凄まじく、どれぐらいの短さ? とか、膝は見える? と質問を重ねに重ねた。膝小僧が見えてたよ、これぐらい。僕はそれを聞いて振り向きたい、という確かな衝動を必死に抑えた。しかし、目を瞑れば瞼の裏にセーラー服姿の恩田が見えるではないか。女子学生がどうやってスカートを折るのか分からないので、腰の辺りはぼやけるが。
チャイムの音で我に帰る。何考えてんだ馬鹿野郎。まるでこの間リコーダーを擦りながら女子にセクハラしてた阿呆みたいだぞ。僕は最近、ああいう行為を物凄く嫌悪するようになった。猿だ猿。だが僕の中にも野蛮な猿いて、檻の中で寝息を立てているかもしれない。それが、怖くて仕方ない。
四時間目の理科の実験で、不運にも僕は恩田と同じ班になった。アルコールランプに火をつけるのは大抵男子の仕事だ。給食をひっくり返した時も、虫が出た時も、女子はキャーキャー言うだけで何もしない。
今日の班は恩田、僕、恩田と大して仲良くない女子二人。空気は最悪だ。女子二人は隣の班にちょっかいをかけ始める。無駄な話をしないため実験はどの班よりも先に終わり、本当にやることも話すこともないまま、僕と恩田は沈黙していた。少し遠くで二人組があろうことか家族の話を始める。私のパパが昨日ねー。
僕は冷や汗をダラダラかきながら課題のプリントを凝視する。何やらかしてんだ丸聞こえだよ。しかも話が中々変わらない。だがここで思い出した。中休みに葬式の話を平然とした顔でしていた恩田の姿を。彼女が傷ついていることは確かだろうが、周囲が必死に気を遣う必要はそこまでないのではないか。まして本人に向けて話しているわけでもない。横目で盗むように恩田を見やると、彼女は机に肘をついて僕を見つめていた。僕が向くのをずっと待っていたらしい。
「ねー」
身体を斜めに傾け、細い脚を組み、どこかの女王様のような座り方をして、僕の名前すら呼ばない。低い女の声に自然と身が縮こまり、僕は女王に罰せられる下男になった。
「あの子たち、ウチのこと全然考えてないよね」
は……と息が漏れる。あからさまに血の気が引いていく。胸の中を痒みが駆け巡り、いてもたってもいられなくなる。その時僕はどんな顔をしていただろう。結局返事の一つもできなかったが、ああこの女、この女は! 五時間目も帰り道も、家に帰ってからも心の内でそう叫んだ。
我が家のテレビの音はでかい。狭いマンションの自室では茶の間からテレビの音が微かに聞こえてくる。あの日を境にテレビはずっと災害の情報、もしくは、同じコマーシャル一色。ネットで不謹慎発言を片端から叩くクラスメイトのあいつは、きっとどこか遠くの世界の話だと思っている。僕は何も知らない。テレビの情報しか分からない。だが、自分にも起こりうることが、自分に起こらなかっただけであまり身近に感じられない、そのことへの恐怖があった。
今思えば、いや当時から思っていた、僕は最低の猿だ。恩田にとって父の死がどんなものかはかり知れる訳がない。それでも恩田へ嫌悪に似た感情を持った。嫌悪はやがて毒のように体内を巡り、何度も循環するうちに、変な気持ちになっていく。
お葬式でね。
恩田。大人しいクラスメイトの女子。そこそこモテる。エーケービーとアラシが好き。
セーラー服着たよ。
地震。緊急速報。月曜日に聞いた訃報。二日後の白んだ顔。
校則違反になるけどスカート折ったの。
ふてぶてしい座り方。名前すら呼ばない高慢ちき。
三回!
女王様…………。
毒が、身体の一点に集中する。僕は彼女にそこを見られている。恩田は黒地のセーラー服姿で、スカートを三回折って、白桃みたいな膝を剥き出しにしている。体毛が薄いのか、耳の横とうなじの面積が広い。つやつやの髪。名前じゃなくて「ねー」と呼ぶ。そうすれば僕はまたあの痒みを味わうだろう。あの女め。抵抗虚しく、果てに屈服する。掻き毟って掻き毟って出た体液は、身がちぎれるほどの罪悪と、恐怖と、今まで知らなかった快楽でべたついていた。
僕は膝立ちのまま汚した手を放り出し、死ねばいいのに、と呟いた。保健体育の教科書にある図とは似ても似つかぬそれの正体は、人さえ殺せそうな凶悪さをはらんでいた。これからどうしてこの凶悪な一面を抱えたまま生きていくのだろう。始まったばかりの悪夢に、僕は嘆く。死ねばいいのに。
世の中は大変だ。今も僕と同じぐらいの歳の人たちが地獄を見ている。恩田は父を卒業前に亡くした。卒業式を終えたらすぐ入学式で、無理難題を掲げる明日に立ち向かわなくてはならない。日々は目まぐるしく変化する。僕は、どうする?檻の中の猿が暴れ始める。僕には何があっても太刀打ちできない。
赤いカーペットの上を行儀よく歩く。教えられた通りに証書を受け取り、礼。拍手が起こる。最後に百人で大空へ飛び立つ宣言をして、教室に戻る頃には数人の女子が泣いていた。その中には恩田もいた。エーケービーみたいな服から白い膝を覗かせ、涙目で担任に花を渡している……それが最後に見た恩田の姿だった。
振り返ると、我が学び舎はただのひび割れたクリーム色の箱に見えた。しょぼくて、野暮ったい。だが今は、あの場所に戻れば不安な気持ちが見えない所へ去ってくれるのではないかと思えた。真新しいランドセルを背に希望しか持っていなかった僕が、ここ数日の間で急に遠のいて、別人になってしまった。
帰り道、やはり来なかった不登校のクラスメイトが、自宅の庭で雪かきをしていた。スーツの僕と、ジャンパーにジャージ姿の同級生。「卒業証書どうすんの?」と聞いたところ、彼は「今度貰いに行く」と答えた。