健全中毒
教育に刃を突きつけられている。
少なくとも私の記憶では、子供向けの教育ビデオにおいてマルとバツは用いられても、サンカクの出番は無かった。
赤信号、止まれ。青信号、渡れ。
黄色は大人が判断するもの。
私たちはいつまで赤と青の世界で生きていることが許されるべきだったのだろう。おかあさんと手を繋いで、右見て、左見て、もう一度右を見て。手を挙げて渡りましょう。それさえ守っていれば、もれなく私たちはいい子だった。できる子、できない子の差は信号を守れるか否かの差ではなかったか。マルとバツはどこまでも潔癖に、しかしやさしく判断を下してくれた。
私たちをひん曲げたのは、サンカクの存在だった。
成長するにつれて、マルかバツかを自分たちで決めなければならない機会が出てきた。要するに、サンカクの存在を認知する時が来たのだ。
教師は子供たちに学級会議をさせることを好み、催し物の内容だとか、委員会の役割分担だとか、学校に特定の文具を持って来て良いかという些細な問題でさえ、話し合って決めるよう促した。
ジャンケンでは解決しない喧嘩、泣きだす女子、損得と理不尽。思い返してみれば、こういった場面で有利な状況を勝ち取るのはいつも、マルにとらわれない、サンカクの性質をよく知っている人間だった。マルを厳守し続けてきた私のような人間は、彼らをズルいと言う。しかし、大人は信号を守らなかった子供を叱るように彼らをしょっぴく真似はしない。だから、余計にズルいと思う。
サンカクの不健全さは極まりなく、狂気すら携えて私たちの無機質な教室にとぐろを巻く。教本には無数のマルとバツがあり、その隙間一つ一つに蛆の如くサンカクが密集している。そのうちに、ズルを働く輩はサンカクの不埒な魅力に取り憑かれ、弄ぶようになった。
曖昧、またはグレーゾーンと呼ぼうか。美醜、愛憎、貧富、あらゆる物差しで決め、歪に作り上げていく優劣。大人から与えられたマルの数だけが誇りだった人間は、いつの間にかその大人に見放されていた。私が糾弾したズルは、生きていくための戦略であり、正しさだった。そのことに気づいた時、ようやく自分が健全中毒に陥っていることを悟った。
マルだけを信じ、守ってきた私たちはきっと、サンカクをバツと同義として嫌悪していたのだ。この世には良いことも悪いこともあり、それを決めるのは他でもない自分である。その義務を放棄し、おかあさんやおとうさん、先生に決めてもらおうとする幼稚なこと、いつまでも赤と青しかない世界の軽薄なこと、嗚呼この恥ずかしさを誰かのせいにするとしたら、あの教育ビデオの潔癖なマルとバツ、サンカクを記さなかった教本のせいにしたい。
私や私のような人間たちは健全を求め続けたばかりに損をして、正しい当然の行いをズルと非難し、哀れに生きてきた健全中毒者なのです。大人たちの嘘を見破れなかった愚図なのです。しかしもう、どうすることも出来ない。幼い頃に受けた教育は刃となって喉元を脅し、マルとバツだけの世界に戻ろうと悪魔のように囁き続けている。