ショートショート『きみを前にすると』
挨拶なんてしたことはなかった。
そもそも、顔も合わせられなかった。
暑い日も寒い日も。
雨の日も風の日も。
君のことは知りたかったけど、聞けなかった。
隣を歩くにはあまりにも遠かった。
ただ見ることしかできなかった。
「電車が発車します。黄色い線からお下がりください」
下がるまでもない。
君が振り返れば、僕は人の合間を縫って、前かがみで、足早に逃げるから。
手紙を書こうと思った。
紙はどんな紙を使えばいいか、鉛筆で書けばいいのか、ボールペンで書けばいいのか、分からなかった。
ご飯に誘おうと思った。
箸はどっちの手で持つのか、おかずはいつ食べればいいのか分からなかった。
あいさつをしようと思った。
「おはようございます」 と言えば良いのか、 お辞儀もしたほうが良いのかわからなかった。
目を合わせようと思った。
そもそも君のことを見ることができなくなっていた。
今日は起きられなかった。
目の開け方が分からないし、助けも呼べない。
君を前にすると、どうしても、何もできなくなってしまう。
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