ショートショート〜『蚊』〜
目の前を飛んでいる蚊を食ってやった。
寝間着のまま、裸足のまま、何なら目を瞑っていたかもしれない。
僕はベッドの上で寝転びながら、流れにまかせて飛ぶ蚊をふわりと口に入れて、しっかりと咀嚼した。
かつては、手で捕まえようとしたこともあった。
夜中に響くパーカッションに、さすがの隣人も抗議の意があったらしく、先週の土曜日の朝にポストの中に手紙が入っていた。
「リズムとしては面白いですが、後半の失速が気になります。もっと序盤は、テンポを落としても良いのでは?」
等々、習字のお手本みたいな字で、批評が書き連ねてあり、手紙のすみっこにはゴマつぶくらいの小さな文字でお隣さんの名字が書いてあった。
蚊の足が歯に挟まっている。
『鉄粉を直接、舌にふりかけたような感じがする』友人は、蚊を食べたときにそんな事を言っていた。
僕は水を飲みたい衝動を我慢して、残りの蚊をしらみつぶしに叩き殺そうと、目の上の空を叩く。
何もない部屋に、拍手の音がビヨーンと横っ飛びに反響する。
相変わらず、蚊は白い天井を背にして、宙を泳いでいる。
「吸いにこいよ! 一人残らず喰ってやる!」
と、天井に向かって叫んだ。
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