湯浅翔

キリスト兄弟団横浜教会・大宮教会牧師。 趣味が読書なので、キリスト教文学と聖書の読後感をみなさまと分かち合っていきたいと思います。

湯浅翔

キリスト兄弟団横浜教会・大宮教会牧師。 趣味が読書なので、キリスト教文学と聖書の読後感をみなさまと分かち合っていきたいと思います。

最近の記事

9/13(夕)うたがいながら礼拝する

 十字架の死からよみがえられたイエス様に、弟子たちはガリラヤでお会いし礼拝をささげた。だけど、その箇所を開くと、おや? と思う言葉が記されている。「ただし、疑う者たちもいた」という言葉だ。  使徒たちはよみがえられたイエス様に直接お会いしているのである。また、礼拝をささげているのである。だけれど、使徒たちの中にはまだ疑う者たちもいたということである。  これは一つの真理を表わしていると思う。礼拝と疑いは排他的なものではなくて、両立するものだという真理だ。ぼくたちは100%神

    • 9/12(夕)自分のほんとうの願い

       「良くなりたいか」。このイエス様の問いかけは、38年間も病気を患っている人に対しての言葉だ。普通こんな質問は出来ないだろう。「何を当たり前のことを聞くか」。そう怒りを向けられてしまうことが、簡単に想像できるからだ。  だが、イエス様がそう問いかけたということには、やはり意味があるのだと思う。もしかして……と想像すると、この人は良くなることを諦めていたのではないだろうか。そして、恨みながら、悲しみながら、ひたすら「とある迷信めいた考え」にすがっていたのではないだろうか(ある池

      • 9/11(夕)もっともよいものは、絶望の先に

         十二使徒のリーダー、ペテロはちょっと前までは「イエス様と一緒に死ぬときには死ぬ」と豪語していた。だが、いざイエス様が宗教指導者たちに逮捕されると、ペテロは怖気づきイエス様を裏切った。「そんな人は知らない、嘘ならのろわれてもいい」――そう神に誓うほどであった。ペテロもまた、イエス様を銀貨30枚で打ったイスカリオテのユダと同じ穴のむじなであったということだ。  だが、ペテロはよみがえられたイエス様と新しいいのちを生き始め、ユダは自死を選択した。同じ裏切り者であるのに、どうしてこ

        • 9/5(夕)苦しみの中でする、2つの祈り

           十字架にかかられる前夜、ゲツセマネでのイエスさまの祈り。それは、ご自分が受ける十字架の霊的苦しみを率直に「過ぎ去らせてください」という祈り。そして、「それでも、あなたが望まれるままになさってください」という祈り。  ぼくたちは、苦しみの中で、この2つの祈りを祈るようにイエスさまに招かれているのだろう。率直に、天のお父さんに「苦しいよ。いやだよ」と秘密の心を打ち明けること。そして、それでも天のお父さんのみこころに信頼して、神が最善になしてくださると信じて、「あなたのみこころが

          9/5(朝)神にある「自由」へと

          ※『主のよき力に守られて――ボンヘッファー1日1章』(新教出版社、1986)を読んで。 もし、誘惑というものが、私たちに理解することのできない「神の必然」によって来るにしても、次のことは確かである。すなわち、われわれがこの「神の必然」を崇拝したり、ストア哲学者のように諦めて自分を誘惑に引き渡したりすることのないようにと、あらゆる人間の中で最も試みられたキリストこそが勧めているということ、そして、そのかわりに、神が悪魔の言いなりになる「暗い必然」から、神が悪魔を足の下に踏みつ

          9/5(朝)神にある「自由」へと

          9/4(夕)もっとも小さい人を愛することが

           イエスさまは、飢えている者、渇いている者、牢獄にいる者、病いを患っている者、世間から小さき者として扱われているすべての者を、神さまの愛で愛しておられる。  イエスさまの愛しておられる人々を愛してゆくこと。それこそイエスさまを愛し、イエスさまを大切にするということだ。  世間のまなざしに影響を受けて、ぼくたちは誰かを軽んじてはいないだろうか。誰かを無視してはいないだろうか。イエスさまがすべての人を愛しておられることを、ぼくたちはあらためて聖書のことばから受け取りたい。

          9/4(夕)もっとも小さい人を愛することが

          神からの語りかけを、どう捉えるか

          ※J・グリーン「モイラ」『キリスト教文学の世界』第一巻(主婦の友社、昭和52年)44頁~58頁を読んで。  主人公ジョゼフの、聖職者志望デーヴィドに対する質問は、個人的には的を射ていると思う。牧師になるよう神に召されていると言うけれど、それはどのようにして「神からの召し」だと理解できたのだろうか。勘違いの可能性もあるのではないだろうか。  確かにそうだ。本来なら、客観的な「召しの確認」として神学校での審査が入る。「召された」と主観的に信じることはもちろん重要だけれど、ぼくた

          神からの語りかけを、どう捉えるか

          9/4朝・誘惑という問題

          ※『主のよき力に守られて――ボンヘッファー1日1章』(新教出版社、1986)を読んで。 「自分の力のみを頼りにして生きようとする人間」にとっては、生活全体が戦いであり、「道徳家」にとっては、すべての瞬間が誘惑の時である。だがキリスト者は〔中略〕「誘惑の時」と、「恵みによって守られ保護されている時」が区別されているのを知っている。(439頁) キリスト者は、自分の生活をある原則から見ることはできず、ただ生きている神からのみ見ることができるだけである。〔中略〕キリスト者にとっ

          9/4朝・誘惑という問題

          9/3夕・地上におけるふしぎな緊張

           私たちはイエスさまがふたたび来てくださることを信じている。だが、その日がいつなのかは私たちは知ることをゆるされていない。ふたたび来てくださるが、しかしそれがいつなのかは分からない。そのふしぎな緊張感が、イエスを主と信じる者の生涯である。  そして、このふしぎな緊張感は、私たちの目を自身の使命へと向けさせる。いったい私は、何をしにこの地上にいのちを与えられたのか。神はどんな使命を私に与えてくださったのか。  この問いを、今日もこれからも続けていこう。

          9/3夕・地上におけるふしぎな緊張

          怒りは殺人と同義である

          ※J・グリーン「モイラ」『キリスト教文学の世界』第一巻(主婦の友社、昭和52年)35頁~44頁を読んで。  ――いいかい、こういうこともあるんだ、と彼は前より響きの悪い声で言った。君は人殺しだ。(40頁)  不意に、彼は叫び出した。自分でもどうしてもとどめ得ないものだった。恐ろしい激怒が全身を揺すぶった。(41頁)  主人公ジョゼフは、上級生プレーローに「人殺しだ」と宣言された。確かにそのときジョゼフは人を殺してはいなかった。だが、ジョセフの心のうちに、時と場合によって

          怒りは殺人と同義である

          衆目にさらされる、私たちの傲慢

          ※J・グリーン「モイラ」『キリスト教文学の世界』第一巻(主婦の友社、昭和52年)22頁~34頁を読んで。 恐らくあの女は、僕によって救われるために、僕の道の上に現れたのだろう。(26頁) 《僕が助けてやろう、と彼は思った。あの女が救われるよう僕が助けてやろう。》そして急激な熱狂の中に捕えられて、彼はミセス・デアから屈辱の涙や、約束や、真の後悔や、また恐らくは彼女の冒した罪咎の、公式な告白さえも引き出している光景を、それが嘗て本当にあったことのように、まざまざと眼の前に見る

          衆目にさらされる、私たちの傲慢

          キリスト教は肉欲を否定するか

           カトリック信徒であり小説家の遠藤周作が、『キリスト教文学の世界』(主婦の友社、昭和52年)1巻で、ジュリアン・グリーンの小説「モイラ」についての17頁にわたる解説を書いている。  印象に残った箇所は、以下のとおりである。  イエス様が女性に対する淫らな肉欲で苦しまれたのか、という点については、確かに私もあまり考えたことがなかった。だが、遠藤周作がこの解説の最後であるカトリック神父の言葉を紹介しているように、イエス様もまた「肉欲」という方面での誘惑に――陥ることはなかったが

          キリスト教は肉欲を否定するか