「紫煙」

酒場の喧騒は、僕の不安をかき消してくれる。ここにいる間は、何もかもがどうでもいいことの様に思える。恋人も友人も仕事も。だからこそ、僕は友人や恋人を連れてここに来る人達を見るとなんだかウンザリしてしまう。そういう彼等は、僕と違う人間。レイヤーを一つ分隔てた背景の様にしか思えない。彼等が僕を見て脇に逸れたり、不意にぶつかってしまうと『体温、、。』と当たり前のことなのに何だかゾッとしてしまう。そんな僕にとっての安楽地である酒場には、馬鹿な人間もいて、そういう人間は決まって博打を始めて、当然の流れの様に喧嘩を始める。それは、大抵どちらかが死ぬまで続くのだけれども今日、彼は来ているのだろうか?
華やかな酒場の雰囲気には、不似合いな乾いた炸裂音が響く。彼だ。彼は、まだ紫煙が燻るハンドガンを人差し指だけでクルクルと回している。彼は、今の一撃で喧嘩をしていた一人を撃ち殺していた。自分以外の誰かが死ぬのはいい。少なくとも、僕の人生は此奴よりもマシだと思えるから。
「お前、運がいいな。俺は、今日、気分がいいんだ。」
そう言って、彼は、態々目線を血まみれで失禁した片割れの男に合わせ、その顔に煙草の煙を吹き付ける。その目は、どこか虚ろで、悲しみが顔にポッカリと穴を開けてしまった。そんな風に思えるほどだった。彼は、立ち上がるとカウンターに並べられたジンを勝手に取って飲み干してしまう。だが、それに文句をつける者は誰一人としていない。当然だ。誰が、今しがた人を撃ち殺したばかりの人間に説教ができるだろう。
僕は、飲酒によって自分の心に巣食う悲しみを一時的に洗い流すことができた。けれど、彼は僕と違って、アルコールによって自身の感情を大幅に増幅させてしまう。そんな厄介な質を抱えている。だが、それは僕には関係ないことだ。これは、彼の問題であって僕の問題ではない。
彼が、何かを見つけたように視線を揺らす。その視線は、こちらに向いている。彼が、一歩、二歩と足を踏み込む。
「お前は、俺と同じ眼をしている。これは、疑いようもない。そうだろぉ。なぁ、兄弟。」
今まで彼が僕に絡んできたことはなかった。彼は、ケッケッケッと薄気味悪い笑みを浮かべながら僕の方に腕を回す。その吐息は、アルコールの匂いと魚の腑が腐ったような耐え難いものだった。
その時、僕の中で何かが弾けた。彼は、僕が引いた他者との領線を踏み越えてしまった。彼は、自分の感情を僕に向けた。
「あんたが何を考えてるのかは知らない。だけどね、ウザいんだよ。あんたの自己哲学だかなんだか知らんが、自分の考えを 押し付けて他人を定義づける人間がね。それに正当性があろうとなかろうとね。」
僕は、掏摸の要領で彼のホルスターから手早く銃を引き抜くと、彼のこめかみに銃口を当てる。彼は目深に帽子を被っていたが、それでも分かるくらいにニヤニヤと笑っていた。
「お疲れ様。あんたは、今日気分が良かったのかもしれない。だとしてもね。僕に話しかけたのは、運が悪かったね。僕は、今日、虫の居所が悪いんだ。」
僕は、憐れみを浮かべるように顔を少し顰めると、銃の引き金を引いた。そこに一切の躊躇いはなかった。その瞬間に僕の細やかな幸せは失われた。僕は、傍観者ではいられなくなってしまったから。これからは、きっと僕が彼の代わりを務めるのだろう。そして、僕がいなくなっても、また代わりの誰かが現れるのだろう。世の中というのは、そういうものだから。
彼は、ひょっとすると自分の役割から逃げ出したかったのかもしれない。そう思うと、僕は無性に腹立たしくなって、もう動かなくなった彼の死体へと再び銃口を下ろし、チャンバーの中の弾丸がなくなるまで引き金を引き続けた。
酒場には、紫煙と血の匂いだけが漂っていた。他には、音一つなくまるで時が止まってしまったかのようだった。
せめて、発狂することができたら楽だったのかもしれない。けれど、僕は自分でも驚くほどに冷静だった。人を殺した後の彼のようにジンを飲み干すと僕は、胸ポケットに入れていたピースをふかした。そして、いつまでも天井でクルクルと回る空調を眺めていた。

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