[Leica]
旅行先で写真を撮る。自分で見返すことはないし、誰かに見せるつもりもない。尤も、僕の場合、写真を見せるような、いや見てくれるような人がいない。ただ、それだけの話なのかもしれない。元々僕には、写真を撮ることに対する情熱なんてものは露程もなかった。大枚を叩いて購入したLeicaは、何のために存在しているのだろう。せめて、レンズにカビが生えない程度には何処かへ行こうと思う。
おおよそ、給料三ヶ月分。朝起きて、コーヒーを飲みながら本を読むこと。眠る前にNETFRIXを見ること。他には、なんら楽しみもなく代わり映えのしない毎日。そんな生活を僕は、送っていた。それ故に、僕の預金残高には、ザクザクとお金が貯まった。大学を卒業して一年経った頃、預金残高の0の数が6つになった。車を買うのも良いかもしれない。そうも思った。けれど、車に乗って行きたい場所なんてなかったし、どんな時でもロキソニンを服薬しなければいけないほど骨が脆く、副作用の眠気を抱えている僕が長距離の運転をすることは現実的でなかった。何に使おうか数ヶ月考えている間にも、お金はまた貯まった。休日に、一人六本木で写真展を見ていた時だった。展覧会には、シルバープリントされた作品の他に彼が使っていたという年季の入ったフィルムカメラが一緒に展示されていた。僕は、高価そうなカメラだなとひどく世俗的なことを考えていた。僕は、興味本位から彼の使っていたカメラの品番をiPhoneに打ち込み、価格を調べた。価格は、押し並べて百万円前後だった。正直言って、僕がこんな高価なカメラを使いこなせる気はしないし、僕の生活にカメラを加える必要性もなかった。けれど、貯金を叩いてしまうにはこれ程ちょうど良いものはなかった。僕は、そのメーカーの最新の機種を実機に触れることもなくオンラインストアで購入した。そのカメラが偶々Leicaだった。
Leicaは、よく手に馴染んだ。フィルムカメラであるLeicaは、流行りのデジタル一眼レフと違って、思うままにシャッターを切るなんてことはできないけれど、何となく惹かれる風景を気紛れに撮るだけの僕には、その方が良かった。東京の街にも何度か繰り出したけれど、人混みは、嫌気が差すだけでちっともシャッターを切ろうと思えなかった。緑地公園なんかは、一眼レフをこれ見よがしに首から下げている学生ばかりで、気分が萎えたし、そんな中で百万円もするLeicaを構えるのは、見せびらかすようで露悪的に思えた。夜の街は、それなりに僕の気持ちを満たしてくれた。けれど、僕が撮るのは人がいない路地や無機質な信号機なんかで、本質的にこの街には興味がないのだろうと熟感じさせられた。写真に映るものは、僕自身の情緖の反映だ。僕の心象風景には、自分自身以外の人間がいない。フィルムに焼き付けられた無人の世界は、僕にとっての世界そのもの。氷河ばかりを撮る写真家のエッセイを読んだことがある。それも、美術館で偶々手に取ったものだ。寒さによる低体温症にオオトナカイやグリズリーといった野獣のテリトリーを横断する危険。彼は、常に死の気配を感じながら、写真を撮る。勿論、彼のカメラには人っ子一人映らない。彼は良い写真を撮りたいから、命がけでそのような写真を撮るようになったのだろうか。僕は、「彼が自分自身の命に重みを感じなかったから。他人に興味がまるでなかったから。」だから、雑誌社に言われるがままに、そんな無謀な撮影を一人で敢行したのではないかと思った。彼に倣う訳ではないが、僕は、ネットで飛行機のチケットと宿を予約した。場所は、沖縄。理由は、出来るだけ何処か遠くに行ってしまいたいという願いの現れかもしれないし、少し前に観た映画の舞台が沖縄だったからかもしれない。
飛行機と宿を取ったまでは良いが、特に行きたい場所というのは、僕にはなかった。那覇空港に着いた僕は、レンタカーを借りて那覇市内をブラブラした。米軍基地の近くの土産屋で車を停めて、僕は、ホットドッグとブルーシールアイスクリームを堪能した。土産屋の二階には、展望台があり、ボラボラと爆音を響かせて離陸するオスプレイを眺めながら、沖縄も沖縄で東京とは種類が違うけれどそれなりに怠いなと思った。そういえば、横浜にもオスプレイが配備されるという話を聞いたことがあるが、あの話はどうなったのだろう。もし、今も横浜の上空をオスプレイが飛んでいるなら態々、沖縄まで足を運ぶ必要なんてなかったんじゃないかと思った。その後は、南端に位置する宿まで、用を足す以外には、特に寄り道をすることもなく車を走らせ続けた。サトウキビ畑や黄金の穂がナウシカのラストシーンのように延々と続き、「自分は、本当に進み続けているのだろうか。同じ場所をぐるぐると周回してはいないか。」と疑いたくなった。そんな僕の心配は、杞憂に終わり日が沈む頃には、問題もなく宿についた。僕は、宿の近くの食堂でソーキ蕎麦を食べて足早に宿に戻った。地元の人々しかいない店内は、誰もが顔を合わせたことのない東京の飲食店よりも僕の孤独感を一層濃くした。
僕は、宿のゲームコーナー横の自販機で缶ビールを買って、部屋で缶を三つ開けた。あのゲームコーナーは、誰のために存在しているのだろう。何かの建前のように、当然のようなツラをしていつまでも居座り続けているそれは、その癖、新しく機種が入れ替えられることもなく紅色の薄汚れたカーペットと共におよそ三十年間。僕が生まれるよりも前から同じ様相のままでいる。僕のような態々、遠隔地から来ても一人で時間を持て余した人間を待ち続けているのだろうか。アルコールに身を任せた僕には、電子空間の中のインベーダーなんてどうだって良かった。僕にしては、とても飲みすぎたみたいで、全く眠ってしまった。
深夜3時ごろに目が覚めて、ぼうっとしたまま何とはなしに海岸沿いを歩いた。海とは、反対側の草叢から蛙の声が聞こえてきて何処となく懐かしい気分になった。アルコールが抜けきらないまま空が白んでくるまでベンチで何となく海岸線を眺めた。黎明の空に橙色の絹のような太陽の光と、夜の気配を残した紫色の霞が混じり合いモネの絵画のような風景が立ち現れた。それは、神々しいと言って仕舞えば、その一言に尽きるのかもしれない。けれど東京の空には、決して描かれることのない色彩だ。毎日同じことを繰り返しやり過ごすだけの日々でも、それに抗うように動けば不整脈のように美しい光景が立ち現れることもある。その可能性は、僕の些末な生活の中に射し込む光そのものだった。僕は、その光を掴むようにLeicaのシャッターを切っていた。夢の中で溺れるような心地に沈みかけていたが、野太い男の声に頬を叩かれたような気分になった。僕は、光に誘われるがままに歩み、海に飛び込む寸前だった。男は、僕に何をしてるんだと大袈裟な声で尋ねるが、僕はか細い声で「何も…。」と答える。僕は、何かを掴めたかもしれない人生に幾度あるか分からない瞬間を邪魔されたようにしか思えず「余計なお世話なんだよ。」そういう感情が湧き、僕の表情をひどく歪めた。男がどういうつもりなのかは知らないけれど彼は、僕を宿まで送ってくれた。何となく危うい奴だと思われたのかもしれない。如何にも、入水自殺でもしかねないような死んだ目をした若者。死人が出たら面倒だから、そんな感じだろうか。大して歳も変わらないように感じたが、男と僕に共通するものは、まったくと言って良いほどなく、絵に描いたような島の大らかさと都市の憂鬱を体現しているようで、何だかおかしくて僕は笑ってしまった。軽トラックに揺られている間、男は、「あんたどこから来たんだ。東京?沖縄でのんびり過ごせば良い、そうすれば悩みなんてなくなるさ。」などと色々気を使ってか僕を慰めるようなことを言ってくれたが、僕は、話を半分も聞いていなかった。
宿に戻ると、飛行機のフライトの時刻が迫っていた。明日の出社のことを考えると遅れるわけにはいかなかった。けれど、僕は、仕事だ何だと気を揉むことそのものがバカらしく思えてどうでも良くなってしまった。僕は、宿にもう一泊することを告げ、会社を無断欠勤することにした。首になるならなったで良い。こうして、知らない場所を彷徨うような人生。その方が、僕には向いているのかもしれない。今朝の夜明けのような光景が見られるのなら。
fin.
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