カッコいい友達(出勤編)
1964年東京オリンピックの時には既に開催されていたパラリンピック(旧 ストークマンデビル大会)。当初は戦争による負傷兵のリハビリを兼ねたスポーツ大会だったという。
現在は広く障がい者がメインのスポーツ大会となっているが私は非常に注目している。
生まれながらのハンデや病気、事故による不自由を負った方々が必死で取り組む姿には、素直に勇気と感動をもらう。
そして一部不自由を負ったことによるところかは私にはもちろん知り得ないが、恐ろしく高い集中力を以て競技に対する才能を開花させ、おおよそ我々では考えられないほどの緻密な動きを披露するその姿には、鬼気迫る迫力と身震いするような興奮を与えてくれる。
延期されてしまったとは言え、東京パラリンピックでの彼らのパフォーマンスは非常に楽しみだ。
さて、ひとくちに"障がい者"と言っても実に様々な障がいがある。そして健常者と同じように色々な性格を持っている人がいる。
私が疑問視しているのは、
障がい者は、おしなべて人格者で性格が良く、知的障がい者なら尚更天使のように純粋な人だという刷り込みだ。
某24時間テレビのように、障がい者を人々の感動を誘うための、ともすれば視聴率を稼ぐための作り上げられた障がい者像を視聴者に押し売りするような番組は、本当に虫酸が走るので今は観ていない。
障がい者だって性格が悪いヤツくらい普通にいる。ひねくれたヤツだっている。そしてズル賢い人間もいる。それは健常者と何ら変わりがない。
私が運転するバスに乗ってくる知的障がい者が、狡猾に料金を誤魔化そうとする場面も何度かあった。
そして、めちゃくちゃ粋でクールでポップでキッチュな障がい者もいる。
それは健常者と何ら変わりなくめっちゃオシャレだったりアウトローだったり頼れるアニキ、アネゴだったりする。
私の友達に後天的に全盲になってしまった人がいる。彼はアマチュアでバンドを組みギターを弾いている。しかもめちゃくちゃ上手い。
もちろん目が薄っすら見えていた頃からバンドをしていたので上手いことも何の疑問もない。
ただ、全く目が見えない状況の中で普通に生活を送り電車に乗って会社に行き、電車内で心無い嫌がらせを受けた相手に対し張り倒して馬乗りになってボコボコにする寸前で駅員に止められたというエピソードを聞くに、私たちが彼に対する「アンタ絶対見えてるだろ!」というジョークも何の気負いもなく言えることが彼の懐の深さ、そして尊敬出来る所以だ。
うっかり嫌がらせを仕掛けたサラリーマンはきっと、障がい者が皆 気が小さく世間に対し申し訳なく生きていると勘違いしたのだろう。
そして、図らずも"障がい者"というだけで自分よりも下に見てしまった自身の浅い見識のお粗末さに、きっと後悔したことだろう。
障がいとは、決してハンデではなくあくまでも身体の特徴でありパーソナリティー。
私はそう思い過剰な忖度はせず普通に接することを教わった。
そして困っている人がいれば遠慮せず堂々と手を貸すことが、彼らはやはり嬉しいという。
障がい者に優しい社会というのは、何も特別に優遇され保護された社会というわけではなく、ごくごく自然に一般社会に溶け込むことが出来る社会なのではないだろうか。
何の気負いもなく。