文章と料理は似ている
文章と料理は似ている。
文章を書くには頭の中にある「伝えたいこと」が必要だ。
料理ならば「目指す味」。
誰かに伝えたいことがあるから文章を書く。食べさせたい味があるから料理を作る。
人に伝えたいこと。それをどう伝えるかを考える。言葉を選んで適切に並べる。そうして、伝えたいことが人にも理解できるような形となる。伝わると嬉しい。
食べてもらいたい味を目指して、食材を揃え、下ごしらえをし、調理する。美味しいと感じてもらえると嬉しい。
結局、文章と料理は、誰かに共感してもらうための手段なんだなと思う。
あ、違うか。自分が食べたいものを作る自炊も料理で、自分だけに向けた日記も文章だ。両方とも、自分を納得させるための手立てでもあるのだな。
今、新メニューの試作を4つやっている。
ひとつは、グランドメニューにするもの。これはいつも通り、シェフといっしょにアイデアを出して、シェフに何回か試作をしてもらって、完成に近づけていくやり方。
今回は、初回でかなり「来たぞ!」というものができた。あとは微調整して写真を撮ってオンメニューまで一直線だ。
あとの3つは、今度の店の15周年パーティーで出す特別メニュー。シェフは別の準備が色々とあるので、僕が自宅で試作をして完成までもっていくことになっている。
メニューは「バインミー」「ラムバーガー」「ホットドッグ」と、どれも挟むやつ。
作ってみると、まあ悪くない。だけど「これはいいぞ!」と心躍るところに到達するにはまだまだ。
何回か作っているうちに、世の中の挟むやつは、微妙なバランスで成り立っていることがわかってきた。
パンと具。具の種類。味の濃さ。歯触り。冷たいと暖かいの温度差。どれも、ちょっと変えるだけで全体の印象がガラッと変わる。
だから、微調整を繰り返す。そして、ここでやめようというタイミングがどうにもつかめない。結果、延々と調整を続けているうちに、腹がパンパンになり、夜が明けている。
そしてふと思う。
これは文章を書くときとそっくりだ、と。
僕は自分の書いた文を推敲するのがやたら好きだ。推敲し始めると、もっと磨けるのではないかと、ずっと撫で撫でしちゃう。やめ時がわからないのだ。
これは危険だ。
どこかでゴーサインを出さないと、永遠に料理の微調整と文章の推敲だけをやっている人生になってしまう。
ただ文章の場合、助かるのは締め切りの存在だ。締め切りがあるおかげで、「もうこのへんで撫で回し終了!」と見切りがつけられる。
そうだ。まだパーティーの開催日まで時間の余裕があったから、試作&微調整を繰り返してしまっていたのだ。
よし。次の試作は直前のぎりぎりにやろう。
そうしたら「もうこれで完成」と諦められるし、あとはドキドキしながらお客さんの反応を待つしかない、と腹をくくれる。
料理も文章も、タイムリミットを有効利用すれば、自分から手放し、相手に委ねることができるんだな。
やはり、料理と文章は似ている。