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3回目のジョーカー:フォリアドゥ④

ゲイリー・パドルズは生まれつきの病気で体が異様に小さい人だ。
いわゆる「見世物小屋」にいるような、子供の体に大人の顔が乗っているような人間で、もちろん、この人も社会から想像できないほど虐げられてきたと思われる。歩くだけで笑われるような存在なのだから。
その人とアーサーは一緒に仕事をしていたが、同じ同僚に二人とも
バカにされ続け1作目でアーサーに殺される。
その場にいたのがゲイリー・パドルズだった。
今回検察側の証人として呼ばれたパドルズは殺人を目撃し、あれはまぎれもなくアーサーであった、でもピエロの変装をしていたことを証言する。

「アーサー色が強いジョーカー」「アーサーのなりをひそめたジョーカー」
「だいぶ振り切ってるジョーカー」ただ「アーサー」にすぎない「アーサー」。色々いたけれど、ゲイリー・パドルズと対峙したその人は
ジョーカーになりたかったアーサーだったと思う。
まともに対峙することができないから、なんだかこの時の言葉遣い、声色、態度全部おかしい。
そんなことどうでもいいじゃん、ということをやたらと掘り下げて
核心部にいくことができない。
たぶんそれはパドルズが知っているアーサーの本当の優しさと
パドルズとアーサーが抱える、共有の悲しみ、なんて言葉では言い表せられない悲しみと、孤独と、全て自分で認めたくない物をパドルズが正面から見せてくるからだ。

狂気しかない世界で唯一狂気じゃなかったパドルズ。これは1回目に見た時から変わらない感想だけれど、この人がアーサーに「僕はアーサーにすぎない」と思わせたんだと思う。

アーサーはついに「ジョーカーはいない」と認めてしまう。
それはたぶんゲームオーバーと同義語のような気がする。
全てが去ってアーサー、煙草を吸わないアーサーに戻る。優しい微笑みを
たたえるただのアーサーだ。でも、それで狂気の世界から解放されたわけではない。狂気は常にそばにあり、そして狂気と正気には実は境目はなく
常に混在していて、それは私も含めて社会ってそういう風にできているのかなと思った。

というのはやっぱり、この映画を3回も、しかも1週間の間に3回もみてしまう私に「狂気」がないとは思えないから。
何かにハマる。沼る。それもある意味狂気であり、
またそれを認めると楽になるのだけれど、認めるまでには相当な勇気と覚悟が必要だということがわかった。

ジョーカー:フォリアドゥの「フォリアドゥ」というのは精神疾患の名前らしく「二人狂い」という意味らしい。この場合アーサーとリーになるのだろうけど、どうかなーーと私は思う。狂っているというよりは「狂いたかった」なのか、狂っているとすれば上述の通りパドルス以外は全員狂っているような映画なので「二人」ではない気もするけれど。

これを書いたのはあくまでも私が短期間でハマりにハマった映画の備忘録であるので、別にこの映画について解説したかったとか、意味はこうだとか述べたいわけではない。
内容はどうあれ、私が観た頻度がおかしいということがどうあれ
これほどはまる映画に出会えたことがとても嬉しい一週間でした。

写真は、私がそこら辺の裏紙に書いたアーサーとジョーカーを
表したもの。こんなことを考えている時点でどうかしているなと思う(笑)

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