(チラ裏レビュー) 沈黙の宗教 儒教/加地伸行 (本 1994年)

※)これは”チラ裏”レビューです。あまり十分な推敲もしておらず、本来はチラシの裏にでも書いて捨てるレベルの駄文ですが、ここに書いて捨てさせていただいております。この先は期待値をぐっと下げて、寛容な気持ちでお読みください。ではどうぞ。

作品名:沈黙の宗教 儒教/加地伸行 (本 1994年)
評価:★4(★★★★☆)
リンク:https://www.amazon.co.jp/dp/4480093656

 デイリーWiLLという右派系YouTubeチャンネルにゲストで著者が出演していて、本書の話題が出てきて、タイトルに非常に興味を惹かれて読んでみた。2011年に刊行された文庫版を読んだが、1994年に刊行された単行本を底本としている。Kindle版はまだない。かなり面白いのでこういう本はKindle版も販売してアクセスしやすくしてほしい。

以下、ためになった箇所の要約・抜粋。

第1章-(3)「インド人の<あの世>と<この世>と〜<苦の世界>における輪廻転生」:

インドは高温で暮らしにくく、生・老・病・死の四苦はインドにおいて現実そのものであり、生きることは”苦”であるという感覚があった。せっかくこの世に生まれてきたのに、苦のまま寿命も短く死んでゆく。諸行無常。この儚い人生に希望を与えてほしいという願いから輪廻転生という死生観が生まれた。死後、その魂は次の世界へと輪廻するため、元の身体に戻ってくることはない。そのため、遺体は焼いて残骨もガンジス川へ捨ててしまう。お墓を作ることは、輪廻転生を説くインド仏教としては無意味なことなのである。

第1章-(4)「中国人の<あの世>と<この世>と〜<楽の世界>における招魂再生」:

中国人はインド人と異なり、この世を苦と考えず楽しいところとする。インドで生まれた仏教は五感を夢幻にすぎないとするが、中国人は五感を大切にして人生を楽しむ。現実的であり即物的なのが中国人の特質。こうした死生観にふさわしい説明を儒教が与えた。精神を魂(こん)、肉体を魄(はく)とする心身二元論だ。生きているうちは魂魄は一体だが、死ぬと分裂し、魂は天へ浮遊し、魄は地下へ行く。現実的な感覚を重んじる中国人にとって、天と地の間の空間が世界の全てであり、仏教がいう極楽や地獄という世界は存在しないため、死後分裂した魂は天の雲の浮かぶあたりに、魄は地表近くの地下に、つまり死者はこの世に留まる。死者の魂と魄は、招魂再生(筆者命名)の儀式によって天と地下から呼び戻し、死者は再びこの世に現れることができる。魄の象徴である遺骨は招魂再生の儀式に必要だという意識から、儒教文化圏の中国・朝鮮・日本では遺骨を墓に埋葬するという慣習が生まれた。また、招魂再生の儀式の際に拠り代とするのが神主(しんしゅ)という道具で、中国仏教がこれを取り入れて位牌となった。

第1章-(6)「祖先祭祀と先祖供養と〜儒教と仏教との融合」:

「儒教の招魂再生」「仏教の輪廻転生」「道教の不老不死」この三者は元々は死生観が異なるが、仏教は信者獲得のために儒教の死生観を取り入れた。中国や日本などの東北アジアの人々は祖先祭祀という儒教的発想から抜け出すことができなかったためだ。先祖供養・墓という形式は儒式であるし、葬儀も棺・位牌・遺影を置いている。「あえて言えば、いったい本尊に対して祈りを捧げ、死者を輪廻転生の苦しみから救ってくださいと、葬儀参列者の誰が思っているであろうか。大半の参列者は本尊を拝まず、死者の棺を、位牌を、特に写真を拝んでいる。それは亡き人を想うことであり、ことばを換えれば儒教流の招魂再生をしているのである。」

第1章-(7)「<生命の連続>の自覚〜孝と利己的遺伝子と」:

祖先は過去であり、子孫は未来である。その過去と未来とをつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表される。儒教は、(1)祖先祭祀をすること、(2)現実の家庭において子が親を愛し、かつ敬う(敬愛)こと、(3)子孫一族が続くこと、この三者をあわせて「孝」と表現したのである。「孝」とは、現代の言葉に翻訳すれば「生命の連続の自覚」のことなのである。言い直せば「永遠の現在の自覚」である。ここにおいて、「死」を見る眼が「生」を見る眼へと一気に逆転する。死の意識から、広大な生の意識へと逆転する。これが儒教の死生観なのである。

第1章-(8)「輪廻転生と招魂再生との併存〜日本仏教の特色」:

日本の仏教の場合、民衆に影響を与えていくのは、平安時代に始まる天台宗・真言宗という密教系仏教からである。それまでの奈良仏教は、学問としての仏教という性格が強く、例えば個人に対して祈祷によって救済するというような性格はない。密教系仏教、例えば真言宗の場合、道教風の祈祷が盛んである。平安仏教は、儒教・道教を取り入れた中国仏教が日本に根を下ろした出発点となり、以後、儒教流の祖先祭祀に基づく先祖供養や道教流の現世利益に基づく祈祷が、日本仏教の大きな柱となっていく。こうした非インド仏教的な流れを批判した代表的な人物が親鸞である。彼はインド仏教流に、自分の死体は物体にすぎないので、死後は鴨川に投げ棄て、魚に食わせよという有名な遺言をしている。親鸞が開いた浄土系仏教では、阿弥陀如来にすがり、往生することが信仰の基本である。そこに位牌や墓は不要のはずであるが、現実は宗祖親鸞の気持ちに反して日本人は墓を作ってしまう。「日本人の心の中にある魂・魄への多み、先祖供養、墓参りという心情を確かめざるをえないのである。」

(p.170)(キリスト教と儒教の「博愛」のちがいの話):

儒教文化圏の人間は、キリスト教的な「博愛(知らない人でも愛しなさい)」に対して、一般に抵抗感がある。博愛精神を持てと言われても、われわれはどこか虚しい気持ちになる。仮にわかったとしても頭の中だけであり実行が伴わない。儒教がいう「博愛」とは、いきなり万民平等にだれをもかれをも愛するのでなくて、まず自分に親しい親や子供に対してまず愛情をつくし、それが十分にできたあとでしだいに他人に愛情を及ぼしてゆけということである。

(p.209)(インド人の時間感覚の話):

インド人は、輪廻転生という死生観を持つため歴史感覚が非常に希薄である。だから、インド文献の成立時期を示すような手がかりは十分でない。聞けば、文献の成立時期の誤差が数百年ということがあっても不思議でないという。しかし東北アジア人の我々は、祖先以来の縦に流れ今日に至る時間、すなわち人間の歴史を重視する。歴史好きとなる。中国人、朝鮮民族、日本人の我々は、文献に対して成立時期を示すことが好きである。細々とした事件に日時をよく書く。中国人・朝鮮民族が一族の系図を記す族譜を大切にするのは、その典型である。輪廻転生するのであれば、その家とは関係がなくなり、その家の系図など無縁となるではないか。儒教文化圏の人々はは時間は有限であるという感覚を持ち、輪廻転生を信じるインドの人々は時間が無限であるという感覚を持つ。

(p.325)(個人主義と家族主義と利己主義の話):

日本でも欧米から輸入された個人主義がもてはやされているが、その背景となっている欧米の諸文化は東北アジアの儒教的文化とは異なったものであり、個人主義が根付くことはないのではないか。東北アジア(儒教文化圏)、南アジア(ヒンズー教文化圏)、中近東(イスラム教文化圏)これらの地域の人々は個人主義文化ではない。結局、個人主義はキリスト教文化圏における立場と見なさざるをえない。その個人主義もキリスト教と結びついている間は、すなわち唯一絶対神と個人との関係が確かな間はそれなりに機能する。しかし欧米人はキリスト教という大文化の衰退とともに自分たちの個人主義が利己主義に変質し、翳りが出てきつつあることを感じ、個人主義に対して自信を失い、家族に目を向けつつある。個人主義をとらない儒教文化圏、ヒンズー教文化圏、イスラム教文化圏では、現実生活におけるその家族あるいは家族中心の意識が家族内の各個の利己主義の肥大を許さず、それを抑止する力を持っている。

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