見出し画像

この世に地獄は無数にあるという話

最近、「菊と刀」と「消された一家」、2冊の本を読んだ。

「菊と刀」は約80年前に書かれた古典でありながら、戦前の日本文化・日本人研究として今なお第一級と言われている本。アメリカの文化人類学者 ルース・ベネディクト著、1946年出版。
「消された一家」は2002年に発覚した「北九州監禁連続殺人事件」をまとめた本。

この2冊を通じて、私が注目したのは以下に示すふたつの人間の性質だ。

・人間の適応力の高さ。いかなる地獄にも意外と適応して生きていけてしまう
・地獄にいる当人は、自分自身が地獄にいることに気付けない

人間とは、人生のさまざまな局面でついつい環境に適応した行動をして、結果として他人の決めた人生を生きさせられてしまうものだ。これらふたつの人間の性質を強く胸に刻み込んでおけば、「自分の人生」を生きられる確率を少しは高められるかもしれない。

まずは「菊と刀」の話。

「菊と刀」は日米の文化を比較することで日本文化・日本人の行動を研究する本だ。約500ページ、全13章の大ボリュームの本だが、その内容のほとんどは、本や映画、歴史、戦時中の日本人の行動を観察することに割かれ、その結論は以下の通りだ。
日本はアジア諸国の中で唯一、欧米に肩を並べるほどの近代化に成功したが、その社会の土台部分は欧米と大きく異なっていた。欧米がフランス革命やアメリカ建国などを通じて旧来の封建的な社会制度を脱し、自由主義の土台の上に近代化を果たしたのに対し、日本は旧来の封建的な社会制度をほとんどそのまま残したまま近代化を果たした。
日本社会はまるで日本庭園のように完全に統制された美しさがある。しかしそれは、擬制の美しさだ。日本人は、菊の花に針金の輪っかを嵌めて育てる。そのお陰で菊の花は非常に美しい"あるべき形"で咲くが、引き換えに多大なストレスを強いられる。著者はこの菊のエピソードを日本社会になぞらえて本のタイトルに用いた。
私が本書で一番感動したのは、以下の部分だ(一部省略しながら抜粋)。

余計な気を回したり雑念にとらわれたりすることなく、自分の好きなように行動する事は、日本人にとって目眩く体験である。杉本鉞子は、英語のミッションスクールの「何を植えても構わない庭園」を与えられた体験を以下のように綴っている。「この庭園を与えられたおかげで、私は、今まで知らなかった個人の権利という感覚を知りました。個人の胸の中にこのような幸福があるという事実は、私にとって驚きでした。伝統に背くことなく、家名を汚すこともなく、親や先生や町の人たちを驚かせることもなく、世界中の誰も傷つけることなく、私は自由に振る舞うことができたのです。(他の女生徒たちが花を植える中、鉞子はジャガイモを植えた) この常識はずれの行為によって私が得た自由奔放な感覚。自由の精神がやってきて、私の心をノックしているのでした」それは新世界であった。日本庭園の「擬制的な自然」は、鉞子にとって、それまで仕込まれてきた擬制的な「意志の自由」を象徴していた。同様に、展覧会に出展される菊は植木鉢で栽培され、花に小さな針金の輪をはめることでその位置を固定する。針金の輪をはずす機会を与えられたとき、鉞子は陶然となった。それは、心に曇りのない天真爛漫な陶酔であった。菊は今まで窮屈な植木鉢の中で育てられてきた。そして、花弁を事細かく手入れされるままになってきた。それが今、自然な状態でいられるという純粋な喜びを見出したのである。日本は、新たな時代を迎えて、新しい生活様式においては、「個人の自制」に由来する旧来の義務は要求されない。菊は、針金の輪がなくとも、また、あのような徹底的な剪定をせずとも美しく咲くことができる。

このエピソードで杉本鉞子は、この「自由の体験」で戦前日本社会の厳しい制約のくびきから逃れた瞬間に初めて、戦前日本社会の厳しい制約とそれがもたらす多大なストレスに気づくのだ。戦前日本社会にも、自らに課せられた「応分の場」の役割を果たした上での自由や娯楽はあった。しかし部分的にでもこのような自由や娯楽が認められているからこそ、自分が生まれ育った世界が地獄であるとはよもや思わなかった。

次に「消された一家」の話。

「消された一家」は2002年に発覚した「北九州監禁連続殺人事件」をまとめた本だ。
主犯・松永太。松永は自らの会社の従業員、交際相手の女性、嘘の投資話に引っかかった相手などを次々にターゲットとして金を引き出した。松永はターゲットを"金主"と呼んだ。歴代の"金主"の多くは最終的に逃亡したが、松永の妻となった緒方純子とその家族6人(純子との関係:父、母、妹、妹の夫、妹の娘、妹の息子)および、嘘の投資話に引っかかった清志とその娘は監禁・軟禁・暴行・洗脳され、互いに殺し合い、時には自ら死を受け入れ、自分たちの手で死体を切断し煮て海などに遺棄するなど悲惨な結末を辿り、事件発覚まで生き残ったのは純子と清志の娘の2人だけだった。
以下は、約20年におよぶこの事件のうち、計6名が亡くなった3年間だけを抜粋した略年表だ。

1996(H8)年:清志(34) 虐待死、解体、遺棄される/純子 第二子出産/松永 4人目の"金主"を取り込む(が、翌年に逃亡する)
1997(H9)年:純子 2度の逃走未遂/純子の家族6名(父、母、妹、妹の夫、その息子と娘)を取り込み、監禁/純子の父(61) 虐待死、解体、遺棄される
1998(H10)年:1月、純子の母(58) 殺害/2月、純子の妹(33) 殺害/4月、純子の妹の夫(38) 虐待死/5月、純子の妹の息子(5) 殺害/6月、純子の妹の娘(10) 殺害 (5名とも遺体は解体、遺棄された)

なお、この一連の事件の中で主犯・松永太は殺人に直接手を下していないどころか、指示もしていない(とされる)。松永は彼らを洗脳し、精神的支配下に置くことで、彼らを自らの思い通りに動かしてこの犯罪を実行した。
松永の洗脳の手口は、睡眠・食事・排泄の自由を制限し、さらに100Vのコンセントから引き出した導線で"通電(電気ショック)"の制裁を与えるというもの。これが激痛で、それを何時間にも亘って続けるのだという。普段の会話の中で聞き出しておいたその人の"弱み"も恐喝の材料として利用する。家族や親類や友人に嫌がらせの電話を入れさせ、逃げ場を失わせる手口も印象的だった。
こうして書いてもあまりに荒唐無稽で実感が湧かないが、本書を全編読むと洗脳の実態が少しは理解できるようになる。
彼らは、松永の恐怖の支配下に長期間置かれた事で目先の"通電(電気ショック)"の恐怖から逃れる以外の事は考えられない無気力状態となり、驚くほど淡々と殺人や死体遺棄を実行した。また自らが死ぬ順番だと悟ると、自分から横になり首を絞められて殺害されもした。

にわかには信じられないほどの地獄が現代日本に出現していた訳だが、彼らはそんな地獄にも適応していた。松永の支配の下で役割を与えられ、不十分ではあっても食事・睡眠を摂る生活を何年も続けた。
彼らは自らが地獄のような状況に居ることを認識していただろうか。おそらく無気力状態で何も考えることができず、それを認識することは無かっただろう。

最後に私の友人の話をする。

彼は妻の尻に敷かれている。
自分の服や靴を自分で選ぶことも許されず、妻が選んだものを身につけている。
家では少しテレビを見ているだけで「そんな暇があったら家事をやったら?」とあからさまに妻の機嫌が悪くなるそうだ。なお、彼の妻は専業主婦だ。
私が遊びに誘っても、彼は予定を立てることができない。なぜなら彼がその日に出かけることが許されるかどうかは、その日の妻の機嫌次第だからだ。この前、彼を含めた仲間で昼から遊ぶ予定だったとき、彼は夕方になってようやく現れた。前もって妻に予定は伝えていたが明確な許しが前もって得られず、当日もできる限りの家事をこなし、夕方になって、機嫌の悪い妻を家に残して命からがら(?)逃げ出してきたらしい。
「消された一家」には及ぶべくはないとしても、彼はなかなかの地獄に生きていると思うのだがどうだろうか。
しかし彼はそんな"なかなかの地獄"に適応し、しかしその地獄っぷりを認識せず、「結婚して子供もいる自分はまあまあ幸せ」なんて思っている。グロテスクだ。

現代日本の平和(治安)や自由のレベルは、戦前日本社会や、現代の世界各国の平均と比べるとかなり良好だ。人類の長い歴史を比較対象にすれば、それはもう奇跡的なレベルで良好だ。
そんな恵まれた環境でも、ボケーっと生きていると誰かに型にハメられて地獄に落とされることになるのだから人の世は油断ならない。この世に地獄は無数にある。
この世に生きている以上、苦しみや悩みと全くの無縁であることは不可能だろうが、少なくとも「自分の人生」を生きたいと思う。


いいなと思ったら応援しよう!