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やわらかな地雷

日常のふとした出来事をきっかけに、自分の地雷を知覚することがある。地雷というのは、自分がムキになること。他の人からしたら「そんなことで?」と思うような些細なことが、自分にとっては譲れないことであったりする。

今年の6月に5年近く交際していた彼氏にフラれた。彼はとても決断力が弱く、とにかくその場を切り抜けられればそれでよいという考えで根本的な解決を先延ばしにするきらいがあった。わたしは「もっときちんと現実をみて。長期的に考えようよ」などと偉そうに言っていたような気がする。もともと結婚をするという約束で交際がスタートしたのにも関わらず、まったくそれは成されることなく彼は激務の職場で心の体調を崩し、なあなあになったままの別れであった。

7月に今の恋人と出会い、8月から交際がスタートした。新しい恋人は決断力があり、それに伴う行動力もある。自己肯定感もあって倫理観もまともだ。前の彼とは真逆のような存在。わたしはその眩しすぎる正しさに、いつも目を細めてしまう。
どうやら今度こそは結婚にありつけるらしい。しかし口では結婚とは言ってもどこかそれは他人事のようにわたしの中に響いていた。
結婚とは共同生活である。病めるときも健やかなるときも、手を取りあってやっていくふたりの共同作業。そう思うと突然、漠然とした不安がざらりと訪れたように思えた。
わたしは大人になってからはひとりでなんとかするのが当たり前で、ひとりでなんとかするために成長/進化を遂げてきたように思う。最終的に人の手を借りるとしても、蹲ってみっともなく泣きながら助けの手が差し出されるのを待つなんてごめんだと思って生きてきた。
その考えのきっかけになったのは、実家で暮らしていたときのこと。子どもというものは一般的には親の庇護下で暮らすものである。親が携帯代やお小遣いを管理しており、多感なお年頃のわたしはそれがなければまったく困る状態であった。しかしわたしの行動が親の希望にそぐわなかった場合には、いつ携帯の使用やお小遣いの支給が打ち切られるかもわからない不安があった。「じゃあ携帯電話をとりあげるぞ」と脅されれば、親の言うことに従うしかなかった。それはとても居心地の悪いものであった。
大学進学を機に実家を出たが、以降も学費や家賃を負担してもらっていた。とても有難い反面、そこに寄りかかることの息苦しさもまたあった。(自分で寄りかかるほうを選んでんだけどね)
大学卒業後イッチョマエに働くようになってようやくわたしはひとりで立つことができるようになった。社会保険料や住民税、年金の支払いにあえいではいたが、晴れ晴れしい気持ちであった。それ以降、誰かに寄りかかることでその恩恵を人質にとられる息苦しさから、基本的にひとりでなんとかしようという考えになりそのように行動してきた。ときには苦しいこともあったが、この身ひとつでなんでも決断して行動してよいという気軽さがとても心地よかった。
それが、これからふたりになるのだ。わたしがひとりでできないことは、恋人にお伺いを立ててふたりでやっていかねばならない。そう考えたときに、わたしはそれに向き合うことが漠然とたまらなくつらい! と思ってすべてを投げ出してしまいたいような気持ちになった。今まではわたしひとりで決断してわたしひとりで行動していればよかったが、ふたりで決断して、ふたりで行動するということが追加される。まあぼかしてるけど妊活とか老後とかの話ね。
自分ひとりで完結するだけの生活からの脱却。それはわたしにとっては恐ろしいのだ! とっても! これはつまりわたしがやりたくても向こうがノーといえば否決になるということ。今まではわたしがやりたいことは自分で決断して行動を起こせばそれでオッケーだったのにそれができなくなるってことだ。やりたいことができない、こんなのここ数年で初めてだよ! 逆にここ数年のわたしがすごすぎるだろ! やりたいこと全部やってるからね。

そんなこんなで冒頭の話。わたしは自分以外の人間に自分のことについての裁量を任せるのがとても恐ろしいらしいことに、気がついた。それに対峙するとすべてを投げ出したくなるほどの、地雷。元彼に偉そうに「もっときちんと現実をみて。長期的に考えようよ」なんて言っていたのに、今はわたしが現実をみるのが恐ろしくてくさくさしている。占い師のくせに。わたしはそんな人様の人生に口出しできるような人間じゃないじゃん。くさくさ。

まあ占い師のわたしは「でもそれは自分の成長のチャンスだね。成長には痛みが伴うもんだよ。とりあえずやってみるしかなかろう!素晴らしい恋人がいるのだからふたりで話し合うべきよ、それに応じないような人ではないでしょう」って言うんだろうな。わたしに。

はいはい、やってやりますよ。


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