意志を持てない自分を脱した話
わたしなんぞよりもっとわかりやすい言葉で解説しているひとらは山ほどいるんだろうが、とりあえず自分が思ったことをつらつら書いていこうと思う。
いきなり自分語りで申し訳ないが、わたしは「自我」を獲得するまでに、わりかし時間がかかった方だと思う。
実際世間の人たちがどれくらいの年齢で「自我」を獲得しているのか定かではないので、なんともいえないといえば、なんともいえないが。
わたし自身はここ数年でかなり自分を変革し、さしあたって「自我」も確立させたと思う。もう32になるが、ここ数年の話である。
その「自我」を獲得するにあたって、「おりこうさん」であることをやめたというのが大きい。
ここで言うところの「おりこうさん」は、「相手が必要としている言葉」、つまり模範解答を無意識に探してしまう癖がある人、と定義する。
相手はこの話をどんな流れにしたいのだろう、どんな言葉を言えば相手を楽しませられるだろう、といった、ある種献身的とも言えるこの癖を抜くのにはいささか時間がかかった。
「おりこうさん」だったときには、その相手が軸となり、「その人が楽しいとわたしも楽しい」「その人の幸せがわたしの幸せ」に近い感情があったように思う。その性質を持っていて何が困るって、相手がいなくなったときに自我がなくなるのである。
相手がいなくなった途端に、自分自身がなにが楽しいのか、何が好きか、何をしたいか、どうなりたいか、そういった自分の意志がわからなくなってしまう。だって今まで自分の意志決定を相手に委ねていたから。無論、無意識だから、自分の意志がないことも、それでどのように困るかというのもピンとくるものではない。
逆に「自我」を獲得してから、あっ……過去の自分……自我がなかったな……と気づいたので、当時は当時でそれなりに楽しくやっていたように思う。
わたしの場合は、西洋占星術といういわゆる星占いを勉強したことで、自分の性質(良いところも悪いところも)の理解を深めて、自分の短所をどう補って生きていくか?みたいな思考になったことで大きく抜け出せた気がする。あくまでわたしの場合だが。
西洋占星術は、生まれたときの場所・時間から、その人が惑星によってどのような影響を受け、どんな容姿で何が得意で何が苦手で、コミュニケーション能力や恋愛の傾向、性癖やちんちんの大きさまでわかる(わたしにはわかる)おそろしい占いなのですが、それはあくまで素質の話であって、その素質がどのように生かされる・生かされないはやはり育った環境によるところが大きくなる。
細かいことは省略するが、幼少期や学生時代、自分がやりたいと主張したことをことごとく却下され、「いやいやぼくだよちゃんはこっちにいくべきでしょ」と軌道修正されることが多々あった。そのため、自分がやりたいと思ったことは、あくまで小さな自室で、わたしひとりで完結する程度の趣味にとどめておくものなんだなと漠然と思っていた。それこそ、無意識に自分の意志を封じるくらいの効力はあったようだ。
わたしの意志とは関係なく、親が喜ぶから、恋人が喜ぶから、友人が喜ぶから、といった行動規範が生まれた。
今ならば、絵を描くのが好きだから絵の勉強をして絵で食っていきたい!とか、本が好きだから本に携わる仕事がしたい!そのために必要な資格をとりたい!とか好きなことを仕事にするためにはどうしたらいいか?というふうに思考が働くのだけど、当時の自分には好きなことが仕事になるイメージがわかなかった。
大学に進学するわたしに、両親は「ぼくだよの好きなことをすればいい」「高校までは干渉してしまったから、大学からはやりたいことをやればいい」と言った。でもわたしは自分がやりたいことがわからなかった。大きくなりすぎないように消えないように、大事に大事にしてきた心の火(好きなこと)に盛大に薪をくべて、キャンプファイヤーしようとは思わなかった。そうしてまた、行動規範の軸になる「恋人」や「友人」をなんとなく探しながら生きていた。
流れ的にわたしを変えた西洋占星術しゅごい♡♡的な〆になってしまうのだけど
なにを言いたいかというと、みんな好きなことやりたいことをして、人に迷惑をかけなければどう生きてもいいと思うよ。
でも、好きなことやりたいことがわからない人っていうのは実際たくさんいると思う。自覚があってもなくても。
そんなときはわくわくするほうに進めば良いと思う。どちらにいけば、何をすれば、わくわくするか?心に聞いて進めばいいと思う。
しかし、わくわくすることがない人へ
あなたは疲れています。
休んでください。
そんなかんじです。