本当に「○○ハラ」って言うべきなの?
こんばんは。
今日は、「○○ハラ」でおなじみの、「ハラスメント」という言葉について考えてみたいと思います。
※私個人の意見ですので、ゆる〜くよみながしてください(◡ ω ◡)
この間Twitterのトレンドにこんな言葉が入っていました。
『フキハラ』
人の名前じゃないよ。
その名も、「不機嫌ハラスメント」だそうです。なるほど。
相手の不機嫌な態度に振り回され、相手のことがだんだん怖くなったり、言動に苦しめられたり…
たとえば、家庭内でなにをお願いしても「今疲れてるんだけど」「面倒くさい」「僕が/私がやるの?」などと、不機嫌そうな態度をとられる。そういったことがずっと続くと、「もう何を言ってもやってくれないし…」と頼むのがおっくうになったり、「また不機嫌になられたら怖い…」と恐怖感を覚えてしまう方も少なくないようです。
このような態度のことを、フキハラ、っていうんだね、ふむふむ(◡ ω ◡)
この言葉を知って、わたしは
「あっこんな人、周りにもいるよな…」と、日常生活における潜在的なハラスメントに気付かされたし、
「私もそういう一面があったかもな…」と、反省もしました。
でも、まてよ、とも思いました。
みなさん、ちょっと思いませんでしたか?
ふーん、また、「○○ハラ」って言葉が出てきたのか。
正直なところ、私はそう思ってしまいました。
そして、この感想は決して私だけではないと思います。
つまり、
「○○ハラ」が増えすぎて、逆に軽視されるようになってしまいつつあるのではないか?
と、ふと思ったのです・・・。
そもそも、「○○ハラ」のはじまりとなったのは「セクハラ」ですよね。この言葉が日本で使われ始めたのは、1980年代のことです。
このときは、このセクハラという言葉は
★いままで当たり前、あるいは我慢してしかるべきと思われてきた、潜在的なハラスメント(=嫌がらせ)に目が向けられた
★略しやすく、キャッチーなので大衆にも認知されやすかった
という面で、とても効果がある言葉だったと思います。
しかし、いまや「○○ハラ」の登場から早30年。
この言葉が浸透しきってしまった今、新しいハラスメントが出てきても、人々はこう思ってしまいがちです。
「またか…。」
「これもハラスメントなの?」
つまり、「○○ハラ」を軽視し始めている人が一定数いるのです。
そして、これこそが危ないのだと、私は思います。
なぜなら、「○○ハラ」という言葉にのせて発信することで、注目は集まりますが、
「本当にそれで悩んでいる人」の存在がむしろ軽視されてしまうような気がするためです。
たとえば今回の「フキハラ」。
たとえ、パートナーの不機嫌に非常に悩んで苦しんでいる人がいても、「○○ハラ」というキャッチーな言葉にのせてしまうと、
「そんなんにもうるさい人がいるんだねー。不機嫌なんて誰にでもあるでしょ。」と、流されてしまいかねません…。
ほかにも、「スメハラ」(においに関すること)や、「ヌーハラ」(ヌードルの、ヌー。麺類をすする音に関すること。)など、ほんっとに色々ありますよね。
これら、当事者がどんだけ悩んで苦しくても、
「いやいや。我慢しろよ!」
「口うるさいやつがいるもんだなあ」
「生きづらい世の中になった」
と、言われてしまいそうです…(;_;)
こんなふうに言われてしまったら、本当に悩んでる人がかわいそう…。
ほんとうに、ハラスメントって言葉、使うべきなのかな?
と思って、今日は「○○ハラ」について深く考えてみました。
ただ、私個人の意見なので、皆さんの考えも教えていただきたいです。(◍•ᴗ•◍)
ではでは、お堅い話題でしたが、よんでくださってありがとうございました( ╹▽╹ )
おやすみなさい!
ぐぅ(◡ ω ◡)