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一枚さん/ms.piece


「一枚さん」ってなんだろう.
毎日晩御飯が終わって、少し経つとテレビの音が遠くなって今日のニュースの画像が視覚から消えていく。どこか意識が遠のく感じがほんの少しの時間なのか長かったのかわからない。
 
歴史や自然を探訪する番組が始まってまた少し目を開けてしばらくTVの画面を観る。遠い昔の出来事や、訪れることができない場所の風景が画面に映る。解説の人の言葉が時折聴こえる。
すぐそばに置いているワゴンから、紙を一枚取り出して、小さな容器に水を入れる。顔彩や色鉛筆、水彩絵の具に、パステル、墨にマジックインクにボールペン、ネイルカラーに使い古した口紅などなど。
紙に何かを施す材料は、いろいろあるが、どれも使い古したものたちだ。中には今年になって入手した新参者もあり、その発色の現代性を時々自慢してくれる。
 
 さて、今日はどれを使おうか、手が伸びたものを取り上げる。毎晩同じものとは限らない。今日は小さめの紙に青のインクの濃淡だけで何かを描く。少し最初に水を含ませた紙に筆で少しインクを落とす。広がる色はまだ形を表さない。少し待って次の筆を入れる。
少し、紙がインクの色と馴染んで次はここよと誘っているようだ。そんなふうに、ごく短い時間、紙と画材の間で聞こえる会話に耳を澄ます。最後に、少し遊んでラメの入ったネイルカラーを落として終わりにした。それをスマフォで撮影して、SNS( Facebookとinstagram)に今日の年月日をつけてアップロードする。次の日の朝、紙の裏に年月日とサインをして、紙挟みに挟む。
それが生活の一部になり、12年経った。
一枚さんの一連の作業を済ませて風呂に浸かり、1日は終わりを迎える。
そう、Facebookで始めた毎晩の遊びは、今年で12年経った。
 
SNSを始めたのは2011年で早い方だったかもしれない。
おりしも、東日本で起きた大災禍で、今まで興味のなかった人々にも一気に広まった。そのおかげか最初は見る人も少なく、自分の楽しみ、絵を描く楽しみ、完成の呪縛から解かれた楽しみを味わっていた。すると、絵を見た人たちからの、各々の少しふざけたストーリーがコメント欄に書き込まれるようになった。その言葉をヒントに、私も短いストーリーを書いた。現実の美術鑑賞では、そのようなことは、各人の心のうちに収まったままかもしれない。ネット上のSNSの空間に「絵」を毎晩投げ入れること。反応があろうとなかろうと、未完の絵を数分で仕上げてアップロードすること。それだけはどんな時でも続けられる制作プロジェクトになるかなと、思った。作品用の紙の時もあれば、手帳の切れ端の時もある。出張先なら、そこにあるボールペンで充分。スケッチブックからも自由になれるのが、ただ一枚の絵を施された紙片だ。それを私は「一枚さん」と呼ぶようになった。
 
今日とは、いつの今日なのだろうか。たとえば12年間に「6日」は何日あって、その時に私はどんな紙片をネットに投げていたのだろうか。紙片の裏に書いた年月日を眺めているうちに、太陽暦で進んでいる日付を記した「一枚さん」の時間は、ネットの世界では、もう一つの時空間を編み直すことができるのではないかということに気がついた。12年は干支が一回りしたということだ。これからも続けられる小さな「一枚さん」は英訳してもらうと”ms.piece”となった。この言葉が私はとても気に入っている。


©️松井智惠                   2024年9月28日筆

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