オオカミ村その二
桃源郷再び
「お前は何者か」「お前は何者か」と、繰り返し呼び声が聞こえます。白毛のオオカミは、うっすらと目を開けて暖かい湯の中に浮かんでいました。「おやおや、またこんなところに来なさったか」と、クシャミは梅の枝を持ってオオカミに近づきました。「どれどれ、前にも一度傷を治しに来た赤毛のオオカミが、なんと白毛になっておる。おお、これは冥府から戻って来たようじゃ。珍奇なことよ」と、クシャミはヒゲを撫でて目をつむりました。白毛のオオカミのまぶたには紫恕の姿が浮かびました。「ぼくは、何者でもなくなったのかな。いやちがう。みんなが呼んでいた名前があったんだ、名前はボジだ!」と、急に叫びました。それは、なんとも大きな声で、お湯の沸いている岩がゆらゆらと揺れ、他の動物たちはびっくりして飛び出しました。「おお、起きなさったいや生まれなさったようじゃな、ボジどの」と、クシャミは梅の杖をお湯の中でぐるぐる回しました。「どうじゃな白オオカミのボジどの、何が見えるかのう。以前のおまえさまの毛色は赤いが、今は白くなっておる。おお、あれからまたあの恐ろしい仙女とたたこうて、冥府へ落とされたと。しかし、よくぞ戻られたことじゃ」と、クシャミはボジの横に並びました。
「あ、あなたのことは、かすかに覚えています、ご老師さま。ここへ来たのも初めてではありません」と、ボジは言いました。「そうじゃ、お前は『オオカミ村の一等ボジ』じゃ。紫恕さまがお前を助けてくださったようじゃな。蘇ったお前にとって、自分が何者かはわかりづらかろう。しかしじゃ、稀にしか蘇ることは起こらぬゆえ、お前が何者かは仲間に会うとわかるかもしれぬの、ふおっ」と、クシャミはうなずきながらボジの頭を撫でました。「おや、お前を呼びに誰かが来たようじゃ」と、クシャミは振り返りました。すらっとした仙女がそこに立っていました。「おお胡蝶、お前さんも痛手を負ったはずじゃが」。「老師さま、私はボジの兄弟と仲間を連れて脱出しておりました。しかし、ボジが息絶えたとの知らせで皆悲しみにくれております。一体何がおこったのでしょうか、龍王さまもご存知ありませんでした」。「そうであろう、元来ボジや兄弟妹の出自は稀なことであるからのう」。「紫玉の怒りは、それは大きくなるばかりじゃ。同じ修行をしていたお前は心あたりがあるのではないかと、わしは尋ねてみたかったのじゃ。
なぜ、るりとその子供達を憎むのかということなのじゃが」。と、クシャミは胡蝶に尋ねました。「それには、長き時を思い出さねばなりませぬ。今、急ぎのおおごとは、紫玉が浄玻璃の鏡を奪ったことです。閻魔さまのご息女紫恕さまも、鏡を取り戻すために二つの頂の山から旅に出られました。大鷹とヒメグモが一緒に守り役をしております」。「なにせボジは息を吹き返したのじゃから、また狙われるわけじゃ。おお、されど白オオカミが一頭増えたことになる」と、クシャミは顔をほころばせました。ボジは二人の話を聴きながら、胸の音がトクトクトクと鳴り、暖かくなってきました。「ボジ、いえ一等さま、ご兄弟の待つ島へ参りましょう」と、胡蝶は袂から銀の鱗を一枚ボジの額につけました。ひゅっと二人の姿は桃源郷から消えました。
「少し昔の話とな、どれどれ。と老師は巻物を手にして読み始めました」。
私たちも読みたいよと、いつもの猿、鹿、狐、雉、白サギ、など動物たちが湯の中に戻ってきました。桃源郷の空から明るい月の光が差し込んで絵巻が浮かび上がってきました。
2021年2月14日改訂 「桃源郷再び」