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美術用語の散乱

 日本の美術状況は大変むつかしい。美術史自体が明治以降、細かく切れ切れになっているので距離を置いて全体を把握しようと思っても、つかみにくい。それは、今の美術の中で、作品のジャンル分けの言葉が散乱していることによく表れている。

 洋画、日本画、デザイン、具象絵画、抽象絵画、現代絵画、具象彫刻、抽象彫刻、現代彫刻、そして立体造形、空間造形、インスタレーション。さらに、版画、写真、映像作品、パフォーマンス、メディアアート、コマーシャルアート、コンピューターアート、それに、セラミックアート、ファイバーアート、、現代美術などあげればキリが無く、無駄に文字を並べているだけだ。同じ机上で並べることのできない範囲を指し示す言葉が、日常的に記述や会話で曖昧に混ぜられて使われている。

 そんなこんなで、美術という引き出しの中は今、咀嚼、整理することのないまま放置された明治以降の美術史をためこみ、あふれ出すがままになっている。それぞれの細かなジャンルのつぶやきが、あちこちで絶えず聞こえている。この混沌とした状況を基盤にして、日本の今の美術は、次に何を生みだすのだろうか。
 
 美術は「価値」そのものが生み出される現場である。だから、常に枠組みの言葉に近づきつつも遠ざかるという相反する要素を含んでいる。ならば
混沌とした境界上の言葉が増えていくのは当たり前だと思える。しかし、あまりにも多くの言葉で区切ろうとする日本語の美術状況は、肩書のないものが意味をもたず、所属する名前をつけて身分を証明しないと信じられることのない、個を認めない懐疑による関係性で支えあった社会を表していると、うがったものの見方にもたどり着く。
 
 もう美術だけでいいじゃないかと、面倒くさがりの私は思う。 あるいは、現在もっぱら使われやすい現代アートか。 
    
(現代美術作家)

©松井智惠             

2022年7月16日改訂  1994年12月2日 讀賣新聞夕刊『潮音風声』掲載

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