「最近の若者」が考えること
私を含め、いわゆるミレニアム世代の人間はおっさんやおばさんたちに「最近の若者」などと一括りにされる世代である。
そんな彼・彼女らが我々若者に対してよく言う言葉に「意思が弱い」とか「根性がない」があるのではないだろうか。そのような性質から悟り世代などと言われることもある。
今回はこの最近の若者の意思が弱いということについて述べていきたい。
我々若者はなぜ意思が弱いと思われるのだろうか?正確に言うと意思が弱いのではない。
最近の若者はAこそが幸福であり、それ以外は不幸という二元論的価値観に対してあまり関心がない。
AもBもCもあらゆる価値が幸福で価値あるものであると認める一方、あるゆる価値が不幸で無意味なものであると疑っている。つまり多様性に生きる世代なのである。
反対に言えば、かつての社会は画一的な世界であった。幸福になるためのある種のロールモデルが存在した。例えば、「大企業に入れば将来安泰」という言説はまさにその代表であろう。
しかし、時代の変化とともに社会は著しく変化した。かつてのようなロールモデルは完全に崩壊した。
大企業も倒産するような時代になったのだ。
ここまでで社会変化が停止していれば、我々のような若者は生まれなかったかもしれない。
たとえそんな社会状況であっても、道は一つしかないのだから、そこに向かうしかない。と。
しかしながら、その状況に追い打ちをかける存在が現れた。情報社会の到来である。
インターネットの普及によって情報がボーダーレスなものとなった。情報があらゆるところから瞬時に入手可能となった。
そこで我々は、例えば幸福への道は一本ではないことを知る。さらに言えばかつての幸福は幸福ではない可能性も知ることになる。
情報社会の到来によって、我々は人生には無限の選択肢があることを知ることになる。
大企業に入らなくても、四大卒にならなくとも、結婚しなくとも、マイホームがなくとも、日本にいなくとも、一生懸命働かなくとも、自らが思う幸福というものに辿り着ける。
我々若者はそういうあらゆる可能性を強く信じているのだ。
だから最近の若者は、仕事に精を出さなかったりする。仕事に命をかけても順調にキャリアを進めるかも分からなければ、その道が幸せではない可能性を十分に知っているから。
我々の意思は決して弱くはない。自らが思う幸福に辿り着くために強い意志を持って日々を生きている。
「幸福に生きよ!」どこかの哲学者もそう言っている。