感想:映画『遠い空の向こうに』 「負のスパイラル」に新しいベクトルを
【製作:アメリカ合衆国 1999年公開(日本公開:2000年)】
1957年、米国ウエストバージニア州の炭鉱町コールウッド。
ソビエト連邦がスプートニク1号を打ち上げたニュースが町を席巻する中、高校生のホーマーは、ロケットを自作することを思い立つ。
全米科学コンテストで優勝し、大学の奨学金を得て、将来の道を切り拓くべく、ホーマーは仲間達と奮闘するが、行く手には数々の壁が立ちはだかっていた。
本作は将来の選択肢の少ない炭鉱町に生まれ育った少年が、自分のやりたいことを見つけ、町を出るべく奮闘する物語である。
この構造は『リトル・ダンサー』に通ずるものであり、粗野な言動やスポーツに馴染めない主人公に対比される存在として、マッチョイズムに適応した父と兄がいることも共通している。
『リトル・ダンサー』では、炭鉱町と労働者は「固定されたライフプランのループ」として象徴的に扱われていたが、本作においては彼らの生活や仕事の実態にのり迫っている。資源の枯渇や労働条件の悪さ、健康被害などから将来が明るくないのを皆が理解しつつも、経済上の理由から仕事を続けざるをえない状況が生々しく描かれる。
本作ではロケット打ち上げの取り組みと並んで、炭鉱労働者達の仕事もクロースアップされる。
事故が多発し、死亡者や重篤な後遺症を残す怪我人も跡を立たない状況で、長く働けば炭塵で肺が蝕まれていく。
多大なリスクを背負いながら働いても生活は裕福とはいえず、町の少年達は炭鉱労働者になるか、フットボールで活躍して大学の奨学金を得るかしか選択肢がない。
このため、物理的な負荷に耐えうるタフな心身を持つことがステータスとされ、学校での人間関係(スクールカースト)にも反映される。
こうした環境が、町の住民を負のスパイラルに陥らせ、打破したくとも難しい状況を作り出していることが説明される。
ホーマー、クエンティン、ロイ・リー、オーデルの4人は、ロケット打ち上げ=「科学を学ぶこと」に邁進するが、当初彼らは学校で非常に「浮いた」存在として扱われていた。
特にもともと勉強好きだったクエンティンは、友人がおらず、「クエンティンに話しかけるな」と囁かれるほど疎外されている。最初にホーマーが彼に話しかける際の台詞は「一緒に図書館に行こう」であるが、ここからは、図書館に行くことや勉強することがコールウッドでいかに価値の乏しいこととみなされているかが窺える。
一方で、ロケット打ち上げに成功するまでの道筋には炭鉱労働者のスキルや経験が重要な役割を果たす。
ホーマーは工場の技術者に頼み込んで部品の溶接をしてもらい、後には彼らに学んで自ら技術を身につける。
部品提供からコンテスト出場の手配まで、科学コンテスト優勝に至るまでには、町の人々の協力が不可欠である。
こうした描写から、同じことの繰り返しのように見える炭鉱労働には、実は様々な分野に活用できる知識や技術が蓄積されていることがわかる。「ロケット打ち上げ」というベクトルが付与されることで、それらは従来の範囲を超えて生かされることになるのである。
なお、本作はホーマーと父親のジョン(炭鉱労働者のリーダー格)の対立と和解を大きなプロットとして置いている。これに加え、ホーマーがガールフレンドを見つけることがサブプロットであることや、ロケットというモチーフそのものが男性的であることから、マッチョイズムからの脱却とは捉えづらいところがある。
とはいえ、最初からホーマー達に協力的だったのが女性(ライリー)や移民・非WASP系(溶接工ふたり)であることから、社会的な立場の強さと、固定観念への固執は比例することも示唆されていた。
ホーマー役のジェイク・ギレンホールの抑制された演技が印象的だった。ロケット打ち上げを志して周囲をまとめる、父が事故に遭ったため高校を辞めて炭鉱で働き始める、など、ホーマーの行動はリーダーシップや自己犠牲精神に富んだものだが、ギレンホールの演技によってヒロイックになりすぎず、他の登場人物の行動も見えやすくなっているように感じた。
また、抑制されている分、感情が昂るシーンが強調されている点も、メリハリがついていて巧みだったと思う。
本作と『リトル・ダンサー』で炭鉱の少年達の将来の選択肢の幅の狭さを見ていて、男性でこれなら女性はどれほどなのか……とも感じた。
炭鉱町の少女を中心に描いた作品やドキュメンタリーも探してみたい。