感想:映画『マグノリアの花たち』なぜ髪を切ることが悲しいのか
【製作:アメリカ合衆国 1989年公開(日本公開:1990年)】
舞台は1980年代、米国ルイジアナ州の田舎町チンカピン。
南部の価値観や伝統が残るこの町で、感情の共有と協力を通して様々なライフイベントと向き合う6人の女性を描く物語。
本作は年齢や立場を問わず連帯する女性達のシスターフッド的な関係を取り上げるとともに、コンサバティブな価値観や文化が残る米国南部においても、少しずつ変化の兆しが見え始めていることを示す作品である。
原作は1987年初演の演劇作品であり、こちらでは舞台に現れるキャストは女性たち6人のみで、男性の登場人物は彼女たちの会話を通して言及される「不在」の存在だ。
映画版では男性も俳優が演じるが、彼らのほとんどは女性たちの仕事に無関心で非協力的な、「いてもいなくても同じ」である人々として描かれる。
冒頭のシェルビーの結婚式のシーンでは、忙しく立ち働くマリンに対し、夫のドラムは家の周りの鳩を狙撃するのに夢中であり、ふたりの息子は飾りつけた家の中でバスケットボールに興じていて手伝うことはない。
シェルビーの闘病や死といった困難な場面でも、男性達がショックで動けないのに対し、マリンは打ちひしがれながらもすぐに行動して、物事を先に進めようとする(シェルビーが息を引き取ったあと、葬儀の手配を始めるシーンなど)
こうした描写からは、マッチョイズムを標榜・実践し、女性の仕事に関心を持たない男性の姿や、そのように軽視されている「女性の仕事」が人間の暮らしにどれほど寄与しているかが窺える。
本作の女性達は南部の価値観に馴染んでもいるため、作中で明確に男尊女卑が批判されることはない。
しかし、専業主婦を薦めるマリンに対し、シェルビーは結婚後に仕事を続けようとするなど、時代の変化に応じて女性の考えや立場が変わりつつあることも示唆される。
また、本作でほとんど唯一の「女性を手伝う男性」は、結婚式で給仕係をしていたサミーである。彼はDVによる離婚を経験したアネルのパートナーになり、クライマックスではふたりの間に子どもが生まれる。
この環境で育つ新たな世代は、大人達ほどには性別役割分業を内面化せずに育つと考えられる。本作は少しずつ価値観が更新されていく様子を描いた作品でもある。
この作品の主要な舞台のひとつはトルーヴィが営む美容室である。彼女はヘアスプレーやカーラーを駆使した、嵩のある「ビッグ・ヘアー」を得意とし、客である他の登場人物たちは結婚式やパーティーに際し、ここでスタイルを整える。
ビッグ・ヘアーは、ニューヨーク等の都市部では1960年代には既に「時代遅れ」とされていた髪型である。ヴィダル・サスーンの米国進出以降、顧客の頭の形に応じた、自然な髪の流れを意識した髪型が流行し、カラーリングをはじめ、ヘアスタイルのバリエーションも多様化していた。ひとつの型に髪を固定する装いから、個々人の性質を尊重したスタイルへの変化は、女性の社会進出と連動したものでもあった。
1980年代のチンカピンでビッグ・ヘアーが隆盛なのは、この町が思想・文化の潮流と乖離していることや、女性への抑圧を示す。
結婚式において華やかなビッグ・ヘアーで着飾ったシェルビーは、出産後に糖尿病が悪化して腎臓移植手術を受けると決めた際、長かった髪の毛をばっさりと切る。この出来事は悲劇的なトーンで演出され、人生を闘病と育児に割くという彼女の決意を示すものである。
本作の文脈では断髪は確かに悲しいことだが、一方で、同時期の都市部では、ショートヘアは既に若い女性のヘアスタイルのひとつの典型であり、自己表現の手段として積極的に選択されていたものでもある。
シェルビーの断髪は、髪が女性性を象徴するものとみなし、さらに自らが女性であることをアイデンティティとする価値観がもたらした「悲劇」なのである。
彼女は若年性の糖尿病を抱え、出産にリスクがあると知っていたにもかかわらず、自らが妊娠して子どもを産むことにこだわり、最終的に病が重篤化して亡くなる。幸福をどう捉えるかは様々であり、選択も自由だが、個人的には「良妻賢母」を志向する価値観がシェルビーを死に至らしめたと感じた。
伝統的な価値観では女性の領分として「取るに足りないもの」とみなされていた美容室に焦点を当て、そこで築かれる女性の連帯の力強さを描いた本作の構造そのものは先進的である。
自分の髪をアレンジされている時間、彼女達は自分の近況や考え、時には噂話や秘密を話し、他者の言葉を自らに取り込みながら、「新しい自分」を形作る。他者に起こった出来事を共有することで、彼女達は緊密に支え合う。
本作はこうしたコミュニケーションの在り方を緻密に肯定的に捉える。男尊女卑の消極的な否定や、既存の価値観とのせめぎ合いとあわせ、本作が女性観の変化の過渡期につくられたことがわかる。
また、南部を舞台にした本作では『風と共に去りぬ』を意識した描写が随所にみられる。
結婚式での人々の華やかな服装や室内装飾は同作を彷彿とさせる(アフリカ系の人々がメイドとして働いていることも含む)ほか、ウィザーの飼い犬の名前も「レット」である。
スカーレット・オハラは現在より遥かに男性優位の社会において、「あるべき女性像」に適応できず軋轢を起こした(一方で彼女は伝統的な南部を愛してもいたが)。19世紀を生きた彼女は孤独だったが、100年後の南部では、自我を確立した女性が何人もいて、互いに労り合いながら生きている。
こうした過去への言及が、社会の変化を描く作品としての本作を特徴づけていると思う。
強い意思を持ちながらも、表向きは従属的に振る舞う女性が多い中で、周囲から「変わり者」扱いされているウィザーのキャラクターが好きだった。
たばこを吸い、喪服で現れる際にも自分の好きな柄物のシャツを中に着込む彼女は、社交を厭う一方で周囲をよく観察しており、他人の状態や求めているものの推察に長けている。
性格が真逆のクレリーとは言い争いながらも、いざというときには非常に息のあったやり取りをみせる。このコンビ関係も良かった。
DVから逃れて町にやってきたアメルや、天邪鬼なウィザーの描写からは、保守的であっても排他的ではない、情の厚さや互助精神を感じた。
これはキリスト教の価値観によるところも大きいと思う。セーフティネットとしての宗教の存在についてもより考えてみたい。
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