感想:映画『チューリップ・フィーバー 肖像画に秘めた愛』 刹那にまつわる寓話
【アメリカ合衆国・イギリス共同制作。2017年公開(日本公開2018年)】
17世紀、現在のオランダ・アムステルダム。香辛料貿易が栄華を極める時代、輸入されてきたチューリップ球根の価格も高騰した。珍しい色・模様の花を咲かせる球根は市場で高値で取引され、富を欲する多くの人が投資に熱を上げた。
歳の離れた豪商の妻ソフィアと、豪商に雇われた肖像画家のヤンは恋に落ちる。ヤンは彼女と東インドに逃亡する費用を工面するため、チューリップ市場に身を投じる。
刹那的で激しい恋愛と、チューリップ・バブルの熱狂をリンクさせた作品。
「因果応報」や「諸行無常」を説く寓話のような映画で、すべての嘘と背信は暴かれる。
「いけないと知りつつも本能のまま惹かれ合う」関係のロマンティックな感傷が一過性のものだと突きつけるクールさがあり、スリリングな展開と併せて印象的だった。
本作の前半〜中盤では、絵画や言葉といった、曖昧な概念を形式化したものと、本能・情動が対比され、後者が魅力的に描かれる。
序盤では屋敷に佇むソフィアの平面的なショットが挿入され、夫妻の姿を残す肖像画も、実態を伴わない空虚なものだと映る。おしゃべりで次から次へと言葉を並べる夫コルネリスをソフィアが静止する場面もあり、これらは平板でつまらなく見えるよう演出される。
一方、形に残らない刹那的な感情の爆発、肉体の接触は煽情的で魅力あるように映る。
ソフィアとヤンはほとんど言葉を交わさないまま、心の命ずるままに激しいセックスをして、互いが誰よりも愛しい相手だと考える。
夫コルネリスの子どもを生むための毎晩のセックスが寝巻きを羽織ったまま行われるのに対し、ヤンとのセックスは一糸纏わない姿で、これは彼女の解放を示唆する。
だが、美しく鮮やかな花が枯れるように、刹那的に燃え上がった愛は持続しない。
投資で莫大な利益を得ることが前提のヤンとの逃亡計画が進行するほど、その関係の脆さは際立つ。
最終的に彼女は死んだと偽装して家を出ることに成功したものの、ヤンの元には行かず、修道院で生きる道を選ぶ。
マリアがモノローグで語るように、屋敷を委ねるコルネリスの手紙、ソフィアの姿を留めるための肖像画は、形として残り、意志や感情を保証する。
チューリップで得た利益が幸せをもたらさないことも含め、刹那性の引力を示しながらも、堅実なものを志向する作品だといえる。
ソフィアは抑圧されていて、家族をアメリカに移住させる資金のためコルネリスの妻となり、男児を生むことを求められる存在だ。
ヤンをパートナーとすることが彼女にとって真に解放であるとも言えないと思う。
孤児院で育った女性にとって、裕福な男性に見初められ、娶られることが最大の幸せになってしまう社会の不均衡が色濃く反映されていた。
コルネリスは終盤、「堅実な現実」の象徴として好意的に描かれるが、権威と財力を以て若い女性を所有したことは変わらない(とはいえ、自分を顧みられるのは大切なことだと思うのだが)
ヤンも、ソフィアへの好意が彼女の容姿の美しさに根ざしているようなところといい、ひとりの人間としてソフィアを見ているのか? という点には疑問が残った。肖像画家の「どう見えるか/どう見せるか」という大きなテーマは、ルックス偏重とつながる面もあり難しいなと思う。
ソフィアとマリアの、緊張感と信頼の同居した関係は重層性があって好きだった。
マリアの妊娠をソフィアの妊娠と偽る過程で主従が逆転する描写が混ざり、最後には本当にマリアが女主人になるという展開が特に面白かった。
(結果的に最悪だったとはいえ、ソフィアの行動をそこまで責めるのは気の毒と思うし、子どもを妊娠して産むことに価値を置いて美化するような側面もあってそこは微妙だったのだが)
修道院に始まり修道院に終わる作品で、作中でも神に祈る様子がたびたび登場する。本作の説話的な印象はこれに因るものも大きかった。
しかし、修道院でチューリップを栽培して市場での売買にがっつり絡んでいたり、最後に修道院長がソフィアとヤンを再会させるなど、どこまでも清いものかというとそうでもなかった。前者は史実だろうし、個人的には宗教は人間が生きやすくなるためのツールだと思っているので、ひとつの在り方だとは思うが……