感想:映画『ホリデイ』 レンタルビデオと映画の相対化
【製作:アメリカ合衆国 2006年公開(日本公開:2007年)】
ロサンゼルスに住む映画予告編プロダクションの社長・アマンダと、ロンドンで記者として働くアイリスは、ともに恋愛がうまくいかない。心機一転のため、クリスマス休暇を互いの家で過ごすと決める。
ふたりが住環境を交換して生活する2週間を描いたロマンティック・コメディ。
米国では12月に公開されたクリスマスムービーであり、登場人物が自身の人生の選択に逡巡し、紆余曲折がありながらも、誠実なパートナーに巡り会って前向きに生きていくという、筋立てとしては素直な作品だ。
一方、米国女性と英国女性がそれぞれ「住む世界」を入れ替えるという設定や、作中で既存の映画作品および映画制作への言及がたびたび登場するように、映画やそのジャンルをやや俯瞰的に、相対化して取り扱う側面もあった。
本作は、19世紀を思わせるシチュエーション(『高慢と偏見』を連想した)で、1組のカップルが結ばれる場面から始まる。ドラマティックな音楽に彩られるこのシーンだが、徐々にカメラはズームアウトしていき、それがテレビ画面に映った映画の一場面であり、作曲家のマイルズが画面に合わせて劇伴音楽をつけているところだということが明らかになる。
ここで一度恋愛映画のロマンティシズムの虚構性が明らかになり、アマンダとアイリスが恋愛に挫折するシークエンスにつながる。
アマンダが年に70本もの予告編制作に携わっていると発言したり、アイリスとマイルズがレンタルビデオ店で様々な有名映画作品のパッケージを手に取るなど、本作は映画を観る人間=現実の鑑賞者に近い立場に立つメタ的な要素が取り入れられている(アマンダが自身を取り巻く環境を予告編風に客観視するのもその表れといえる)。
レンタルビデオのシステムにおいて、パッケージ化された映画作品はジャンルごとに分類され、商品棚の中で時代や内容を問わず並列される。ひとつの作品の中では首尾一貫したフィクションの世界も、他の作品との比較によって客体化される。作品・ジャンルに対する「ベタ」や「陳腐」といった評価は他の作品との比較が前提となっており、レンタルビデオやケーブルテレビなど、手軽に複数の作品に触れられるシステムの構築はこうしたまなざしを強化したと考えられる。
アマンダとアイリスが所与の背景を脱するという本作の設定は、上記のような相対化の上に成り立つ。
ハリウッドの豪邸に暮らし、キャリアウーマンで勝気なアマンダと、ロンドン郊外の絵本に登場しそうなコテージに住み、思慮深く知的なアイリスは、それぞれがロマンティックコメディにおける米国女性と英国女性の典型といえる。
しかし、アマンダは仕事に邁進する姿勢や気の強さをパートナーに理解されず、アイリスは率直な自己主張を控える性格を都合よく利用されてしまう。
統一された世界観の中での恋愛が破綻したことで、彼女達はそれぞれの環境を交換することを思いつく。
アマンダとアイリスはともに休暇を過ごした地での生活を通して、互いに理解しあえるパートナーに出会うが、この過程においてはふたりの人格の中で後景化していた要素が前面に表れている。ビジネスで成功すること、強い意思を持つことにこだわっていたアマンダは、グレアムや彼の娘達との交流によって、自分の家族について語ることで自己を再確認し、穏やかに振る舞う。
一方アイリスは、ハリウッドの著名な脚本家であるアーサーの祝賀会出席を後押しし、マイルズと親交を深める過程で、したたかで積極的な顔を見せる。
これは本来アマンダとアイリスが持っていたものの抑圧されていた性質が発露したと解釈できるのに加え、イギリス/アメリカの環境、ひいてはコテージが内包するアイリスの人格と、豪邸に宿るアマンダの人格に互いが影響されたとも捉えられる。
部屋はそこに住む人間の嗜好や考え方といった内面を反映する。このため、部屋の中に入る、内装を替えることは、持ち主の内面に大きな影響を及ぼす行為として描写されることがある(『恋する惑星』のフェイパートが象徴的だと考えている)
既に完成された他人の部屋に住むことは、部屋の主が構築した世界に身を浸すことである。部屋の隅々に宿る互いの性格や考え方に知らず知らずのうちに染まっていった面もあるのではと感じた。
チャットで会話を交わした次の日には家を交換し、休暇期間中は一度も顔を合わせないアマンダとアイリスが電話などで打ち解けた様子で話すのも、家を通じてその人格に触れているからではと思う(ふたりが初めて同じフレームに収まり、ハグをするラストのパーティーのシーンはカタルシスがある)
アマンダ・アイリスともに「中庸」に落ち着くあまり角の立たない筋立ては、良くも悪くも幅広い鑑賞者を想定したクリスマスムービーらしい作品という印象を受けた。
様々なジャンルの既存作品が頻出するのは、前述した相対化のまなざしのほか、作中で描かれるラブストーリーが「映画の鑑賞者たち」によるものという構造をつくることによる主人公ふたりへの同一化の促進、本作を観た後に鑑賞者の会話などのフックとなる要素の挿入などの意味も考えられる。様々な映画(ジャンル)の並列は、本作がソフト化されてレンタルビデオやオンデマンドのパッケージとして並ぶことでさらにその構造が強化されるため、作品がどのように消費されるかを見越してつくられた要素ともいえ、良くできているなと思った。