感想:舞台『蒼穹の昴』  英雄なき歴史劇、「宦官」の意味


【2022年 雪組 宝塚大劇場公演】

舞台は清朝末期の中国。華北の村に住む青年、梁文秀は、官吏登用試験である科挙を受験していた。
村に住む老女、白太太は、彼は昴に守護されており、学問を修め、その叡智によって皇帝を支え、民を救う宿命にあると占う。文秀はその予言に従うように、科挙を主席合格。
西欧ならびに日本との緊張関係の中、伝統に重きを置く西太后の姿勢に疑問を持ち、改革派・帝党に属して、光緒帝主導で近代化を推し進めようとする。
一方、文秀が義兄弟として面倒を見ていた李春児は、農民として貧しい環境で暮らしていた。白太太は、彼も昴に守護されており、西太后に仕えて王朝の宝物を手にする宿命にあると告げる。
科挙を受験する経済力もなく、このまま極貧の中で生きるか、文秀に庇護されるか、という状況に悩んでいた春児は、宦官となって王宮に入る道を選ぶ。彼は京劇の修行を積み、光緒帝の婚姻の儀の見世物で花形役者となって、西太后の側近の地位を得る。
立場を違えた文秀と春児だが、白太太の告げた宿命に従い、それぞれの場で懸命に生きることを誓う。
日清戦争での敗戦を経て、西太后から光緒帝への権力移譲に際し、権力者達の矜持や謀略が絡み合う。文秀と春児をはじめ、激動の時代に生きた人々の姿を描く作品。

浅田次郎の歴史小説を舞台化した本作は、文庫版全4巻にわたる物語を、フィナーレを合わせて計2時間半のミュージカルに翻案している。
複数陣営に分かれた膨大な登場人物と複数のプロットを持つ原作を舞台化するにあたっては、物語のどこに焦点を当てるかが重要といえるが、本作は尺に対してトピックが多く、まとまりきらない印象だった。
また、宝塚における作劇上の制約を破ろうとしつつ、破りきれていないことが、結果として本作を宝塚歌劇で上演する意義が希薄になっているのではとも思った。

宝塚版での主人公は、トップスターの彩風咲奈が演じる梁文秀である。彼は改革派の官吏であり、政争の中心で様多くの人々と関わることになる。また、同郷の義兄弟でありながら立場を違える李春児との関係、ならびに彼の妹である玲々とのロマンスも重要なプロットである。
上述の通り、全てを描くには時間が足りないため、どこかを削る必要があるのだが、本作は上記の要素を網羅しようとして、あまりうまくいっていない印象を受けた。

最も良くないと感じたのは、文秀の人柄を示す重要なエピソード(科挙最終試験での介抱や、北京に来たばかりの頃に玲々を添い寝で慰めたこと)、彼が改革派に属する理由でもある民衆の困窮などが台詞のみで語られ、具体的に描かれないため、彼の行動や去就に迫真性が乏しくみえることである。
「昴の宿命」については丁寧に描かれているものの、彼のポリシーや生き方はそれのみで成り立つ訳ではない。主人公として据えるのであれば、より彼自身にスポットを当てた方が良かったと思う。
専科所属の生徒が多数出演し、西太后や李鴻章のナンバーや独白も設定され、全体としては群像劇としての性格が強い一方、作劇の起点と終点は文秀個人に強く焦点が当てられる、という構成も、やや歪だと感じた。

「昴の宿命」をもとに生き方を捉える姿勢や、政治的立場を違えても確かな志や誠意を持つ者どうしは通じ合える、といった本作の根幹を成す考え方は、著者の浅田次郎がプログラムに記載しているように、為政者が詩の巧者でもある中国の文化や価値観が大きく関係しているといえる。
詩や抒情を重んじる文化と利益・武力を偏重する近代化の流れが対比される一方、それらは決して融和しえないものではない。
文秀は、自らの手で道を切り拓いた春児や、英雄として誇り高く散るのではなく、しぶとく生きて次の時代の礎をつくることを選んだ伊藤博文(作中においては「近代化」の象徴でもある)の影響を受けて、自身もまた、宿命に反してでも生きのびることを選ぶ。すべてをありのまま記録し、伝統的な芸術の文脈では「無粋」ともいえる写真を駆使するジャーナリズムが、文秀の亡命に重要な役割を果たすのも、邂逅の表れといえる。
基調となる文化や価値観が、他国との交流や戦争を経て変化していき、文秀がそれを受け入れる、という流れがより強調されていると良かったのではないかと思う。
また、官吏が詩人でもある、という中国の大きな特徴は、直截的な語彙や言い回しが多い現状の原田諒のスタイルでは表現するのが難しいように感じた。

本作は、国や使命のために命を尽くす英雄の生き様というよりも、様々な立場に置かれた人々が、それぞれの信念を持って生き抜くことを肯定する筋立てである。決められた宿命が変わっても生き抜くことを重視する作劇、絶対的な英雄を立てない世界観は、コロナ禍における価値観の変容も影響しているのではないかと感じた。
(典型的な英雄譚への批判的な目線を含む物語は、『鎌足』『眩耀の谷』など、コロナ禍前からみられたものではあるが)

作劇がまとまりを欠く一方で、個々の場面や舞台美術は見応えがあった。
紫禁城の平面的な構図と、クライマックスの奥行きの構図(春児が駆ける道/文秀と玲々が乗る船)の対比は、登場人物の心境や時代の変化を象徴するものだったし、そのどちらにも当てはまらない不定形な惑いや錯乱を表す阿片窟の場面も印象的だった。官吏や民衆の十分な同意を得ず進められ、現実味に欠ける政策の数々を舞い散る無数の紙で表現した光緒帝の統治のシーンも、ひとつの画面の中で統治者と実務者の乖離がわかりやすく示されていたと思う。
出演者の表現力や技術もあり、それぞれの場面はインパクトがあり、確かに成り立っているものの、これらをスムーズにつなぐことができていない点が本作のネックだと感じる。

また、本作を宝塚で上演する上では、春児を中心に据える方がより興味深かったのではないか、とも感じた。
『蒼穹の昴』を構成する要素の中で、宝塚歌劇の特性にマッチするのは、宦官であり京劇で身を立てる春児、そして彼が属する宮廷側であるといえる。
一幕で言及されるように、当時の中国において、性器を切除して子孫を残さない宦官となることは、男性としての誇りを捨てる恥ずべきこととされた。
一方で、「去勢され、マッチョイズムから切り離された"男性"」という概念は、女性が男性を演じる少女歌劇の男役と重ねられるものである。
加えて、「滅びゆく伝統のきらめき」というテーマも、宝塚歌劇が得意とするものである。
舞台が広く、大規模な機構を使用でき、出演者の数が多い宝塚は、豪華なスペクタクルを実現できる。この特性は、歴史ドラマにおいては、既得権益側を描くことに適する。
本作における紫禁城のシーンのような、きらびやかな宮殿、色とりどりの衣装やアクセサリーで着飾った人々、といった構図は、少数の特権階級が富の大半を独占している背景があることで成立する。
冒頭の李兄妹のように、経済的に苦境に立たされる人々(一般的に改革を行う側に位置する)の生活は彩りやモノを欠く傾向にある。多人数での群舞や歌唱で改革側の迫力は補われるが、華やかな演出を持ち味とする宝塚の性質は、やはり王家や貴族を描くことに向いているだろう。
また、西欧を規範にした上で他国と足並みを揃え、武力を重視し、テクノロジー化を推進する近代化の流れにおいて、華々しく伝統的な文化は否定される、あるいは後景化されやすいものである。
紫禁城の慣習や、中国の神話・物語を演ずる京劇は、いわゆる「先進国」の積極的介入を受ける前の中国で培われた伝統・文化を象徴する。伝統・文化によって抑圧され、苦しむ民衆が多くいる一方で、特権階級はそれらを土台として矜持や誇りを築き、「中国(清朝)は何か、それを支えるために自分は何をすれば良いのか」という指針をつくる、という対立関係があり、その相克は、近代化の時代をドラマとして描く上で重要だと考える。
また、世界各地で同時期に近代化が起きていた中で、「中国の近代化」を描くにあたっては、既得権益側に焦点を当てる方が、その文化特有の事情や人々の葛藤がより浮き彫りになりやすいといえる。

最貧困層に生まれて「富の再分配」を志し、伝統的男性観に背いて保守的な宮廷に入り、芸術で身を立てる、という春児の生き方は、対立する世界を横断するものだ。原作では筆頭の主人公が春児であることからも、複数の立場を俯瞰しながら清朝特有の価値観や心性を見せる、という歴史ドラマとしては、彼を中心に置くのが最もスムーズではないかと思う。

しかし、この舞台において、春児は2番手スターの朝美絢が演じている。
宝塚の男役は、「去勢された男性」としての性格を持つ一方、トップスターについては、異性愛ロマンスを前提とし、相手役となる娘役とセットで考えられる、という性格を持つ。
原田が『ピガール狂騒曲』で行った男役への自己言及や、第一幕での春児の位置付け等を踏まえると、本来は春児を主人公にしたかったが、上記の性格上難しかったのではないかとも思う。

本作は「トップコンビの異性愛ロマンス」に準じつつ、それを十分には描かない、という中途半端な作劇であり、結果として、宝塚歌劇で舞台化することの面白さが表現できていないと感じた。
「ファンが見たいもの、喜ぶことを優先する」という考え方は個人的には苦手なのだが、本作については、トップ娘役・朝月希和の退団公演であることをもう少し意識しても良かったのではないだろうか…(ロマンスを後景化するという挑戦と、得られた結果が釣り合っていないと思う)
小説や漫画といったメディアの異なる原作を舞台に翻案することの難しさを改めて実感するミュージカルだった。

フィナーレは演出・衣装ともに華やかで、扇子を使った男役の群舞など印象的なシーンもあり、良かったと思う。

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