
月の砂漠のかぐや姫 第53話
苑が放ったそれは、自分たちに弓を構えた野盗という一つの危険を取り除いたものではありましたが、さらに大きな危険を呼び寄せるものでもありました。つまり、今まで奇妙な膠着状態に陥っていた場が、とうとう動き出してしまったのでした。
「やりやがったなっ」
「こいつら、絶対生かして返さねぇ」
「行け、行け、行けぇ」
「こ、ここ、こんなにゃろうぅっ」
野盗たちは、一斉に二人に向って走り出してきました。野盗の内の何人かは苑と羽磋の弓矢で倒せるかもしれませんが、とても、それだけで防ぎきれる人数ではありません。
「なんで、こんなことに‥‥‥。輝夜を救うために、阿部殿に会わないといけないのに」
羽磋は、自分勝手に野盗を煽っていた苑を恨めしく思いました。でも、苑を見殺しにして逃げ出そうという考えは、彼の心の中にはまったく浮かんでは来ませんでした。
とはいえ、自分たちに襲い掛かってくる野盗たちを撃退する、良い考えが浮かぶわけでもありません。いったい、どうやってこの場を切り抜ければいいのでしょうか。
「くそ、こうなったら、できるだけのことはするさ」
覚悟を決めたと言えるほど、しっかりと考えをまとめたわけではありません。そもそも、そんなに、考えをめぐらしている時間の余裕なんてありません。ただ、「何をどうすればよいかわからないが、せめて目の前のことを何とかしよう」と、決意しただけでした。
羽磋は、野盗の先頭に立って走ってくる男に向って、弓を引き絞りました。一人でも多く矢で倒し、あとは何とか、短剣をふるって囲みを突破する。それぐらいの事しか思いつきませんし、それすらもできるかどうかわからないのです。
羽磋が祈るような気持ちで矢を放とうとした、その時。
野盗たちの背中側、狭間の入口側から、重い地響きが聞こえてきました。
「来たぁ! 来たっすよ、羽磋殿」
羽磋の横から、心からの喜びに彩られた苑の声が聞こえてきました。
ド、ドド。ドド。ドドド。
「なんだ、なんだ。この音は」
「おい、止まるな、行けよ」
「後ろの方から、何か来てんのか、オイッ」
一斉に前に進もうとしたところに、自分たちの後ろから、重い地響きが聞こえてきたものですから、野盗たちは大混乱に陥ってしまいました。
羽磋たちに切りかかろうとして前に進もうとする者、後ろを確認しようとして立ち止まる者が、無秩序に入り乱れていました。
馬に乗っている野盗は、自分の周りで起こった混乱に驚き暴れている馬から、なんとか振り落とされないようにするだけで手いっぱいで、とても弓で二人を狙うどころではありませんでした。
ゴオッツ!
その混乱の中へ、一つの塊が激しく叩きつけられました。
「冒頓殿!!」
苑が叫びました。
狭間の入口側から突入した冒頓以下数騎の護衛隊が、何の躊躇も見せずに、野盗の群の中央にぶつかってきたのでした。それは、まるで黒い岩の塊でした。その岩の塊に触れた野盗たちは、次々と弾き飛ばされ、大地に叩きつけられました。
「うわぁ!」
「おい、なんだ、なんだ。ああ・・・・・・」
冒頓たちがあまりに突然に現れ、また、その動きが素早かったために、自分がなぜ倒れているのか、その理由が判っていない野盗もたくさんいたと思われます。
冒頓たちは、その速度を少しも緩めることなく、野盗の群を真っ二つに割って羽磋たちの元へ到達しました。そして、二人の傍で手綱を引いて馬を反転させると、今度は、冒頓が黙ったまま槍を差し出した右手の集団の方へ向かって、配下の者と一緒に再度突撃していくのでした。
あまりに急激な冒頓たちの動きについていけず、野盗たちは、抵抗らしい抵抗をすることもできません。ただ、冒頓たちが振るう槍の前で、自分の順番を待つことしかできないのでした。
「す、すごい・・・・・・」
冒頓が羽磋の側で馬を返したとき、羽磋には、彼が二人の方にちらりと視線を送ったような気がしました。数十人の野盗の群を断ち切ったのに、全く緊張した様子も見せておらず、わずかに返り血で赤く染まっているその顔には、子供のような笑みが浮かんでいたようにさえ思えました。
「笑っていた‥‥‥」
羽磋には、ただ茫然とその一部始終を見届けることしかできませんでした。冒頓が乱入してきたときからずっと、冒頓から視線を離すことができないでいました。羽磋は、自分が弓に矢をつがえたままであることにすら、気が付いていませんでした。
全てが終わるまでに、長い時間は必要とはされませんでした。
「よおぅ、おつかれさんだったな」
冒頓は、まだ息を荒げている愛馬をなだめながら、羽磋と苑の方へ向かってきました。
冒頓の背後では、彼の部下が、壊滅した野盗の群から、金目のものや役に立ちそうなものを回収していました。もちろん、野盗が使っていた数頭の馬は貴重な財産となるので、下馬したものが轡をとって、逃げ出さないように管理をしていました。
あまりに素早く激しい動きをしていたため、その人数も定かでなかった冒頓の部下でしたが、改めて見てみると、頭目の彼を入れても、わずか五人に過ぎないようでした。