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季節の果物を剥いてくれる愛があれば

「毎年こんなに暑かったら秋がなくなっちゃうんじゃないかなって不安になるんです。でも、今年も秋が来て安心しました。」そう言って窓を開けるカウンセラーの大坪さんに優しい風が吹き抜ける。カウンセリングを初めて1年が経った。きっかけはインナーチャイルドと向き合うためだった。私の中にいつもいる傷ついた幼少期の自分を大人になった今救いたいという想いからカウンセリングを始めた。向き合いたいという想いが強ければ強いほど幼少期の自分に引き戻され、底のない深い闇に引きずり込まれそうになった。けれど、その分自分が以前より強くなっていることも気づいた。前よりもフラッシュバックする回数が減ったし、堕ちたとしてもその深さは以前よりも浅くなったような気がする。傷ついた自分を直接的に救うことはできないけれど傷ついた自分を認めることができるということを大坪さんとのカウセリングで気づくことが出来た。優しい時間、向き合う時間、それらは私にとってとても大事な時間になっていた。

「もうそろそろ、カウンセリング終わりにしてもいいんじゃない?空きもそんなになくてカウンセリングを待ってる人が沢山いるの。」
そう言う先生には愛がない。私たちの関係は随分と前に終わってしまった。先生と出会って15年、いつからこんな風になってしまったのだろうか。

終わりを告げない恋愛関係に似ている。私は別にいいんだけど口で言いながらも心の中であなたが終止符を打ってよと言わんばかりの態度、責任を取りたくないズルさ、そこに一欠片の愛でもあればと僕は思う。言葉を交わすことはなくとも桃や梨など季節の果物を剥いてくれる無言の愛さえあればといつも思う。それを口にしたことによって季節の果物を買ってくる行為は愛ではなく義務でしかない。こんなことを言えば、あなたが剥けばいいじゃないとでも言うんだろう。僕は季節のフルーツが食べたい訳ではなく、言わなくとも相手を想う優しさがあればとそう思うんだよ。人は変わるものだから、季節は変わるものだから、愛も生活も変わってゆく。妻だから晩御飯を作る、妻だからスーツにアイロンをかける、妻だから主人の話を聞く。それは愛とは言わない。それは優しさとは言わない。僕は君が毎日洗濯をして、料理をして、話を聞いてくれるから一緒にいるんじゃない。家事をしなくとも話も聞かなくたって僕を想う気持ちがあれば、夫としての僕じゃなくて僕自身を見てくれる瞳があれば僕はそれだけでいいんだ。逆にそれが無くなってしまったのであればもう終わりなんだと思う。

幼少期の悲痛な心の叫びを探してくれる先生はどこへ?今の私は薬漬けにされた大人の形をした変な生き物になってしまった。ディスクトップに目を移したままの「最近はどう?」を聞く度に季節の果物を剥く愛があればと思う、この風について話せる愛があればと。
「先生、私病院変えようと思うんです。」
その言葉を待っていたとばかりに微笑む頷く先生。15年という月日の中、私はあなたに救われた。この病院に救われた。けれど、もう私は子どもじゃない。子ども外来の先生は私を見る必要はなくなったのだ。
「正直、先生に言って欲しかったです。」
というとそれはあなたが決めることだからと言われた。先生と患者としてではなく、傷ついた子どもとして救いたいと手を伸ばしてくれた先生の瞳を思い出し悲しくなった。誰でも好きだという人は本当は誰のことも好きじゃないんだという話。誰にでもにこにこと優しい人は本当はは優しいんじゃなくてただ責任を取りたくない無責任でしかないのだ。"人生って冷たいのね" 映画の台詞を思い出した、秋。

例えば、りんごの木がそこにあるとするでしょう。それは、あなたが産まれた時に植えた大切なりんごの木。そのりんごの木と日々を重ね、共に大きくなってきたの。木登りをしたり、リンゴがなれば取って齧ったりもした。けれど、そのりんごの木は突然の雷に打たれて大きな幹を残して死んでしまう。思い出という名の幹を残して枯れてしまうの。その時、あなたはどうする?枯れても尚、りんごが実るのを待ち続ける?枯れていつ倒れるか分からないりんごの木を守り続ける?私なら、そのりんごの木にありがとうと伝えて幹を切るわ。そして、切り株に座って私の大好きなおおきな木って言う絵本を読んであげる。形は変わろうと切り株になろうとそれは大切なりんごの木。長い長い旅をして疲れ果てた時に、切り株は私にまた違った形でりんごという名の愛をくれる。愛ってそういうものだと思う、、ってこんな話を真面目に聞いてくれるあなたが好きなの。私たちもそんな日が来たりするのかしら?なんだか想像もつかないわね。だけどもし、私が枯れ果てた時はあなたがちゃんと幹を切ってね。その時、私はとびっきり美味しいりんごを剥くから最後に一緒に食べましょう。そう、約束。忘れないでね。


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